【序】承認欲求は全く重要じゃない

現在、深夜1時。拘束時間15時間、実働時間12.5時間の二日間を終えて今に至る。最悪のコンディションだけど今しかかけないから描いてみる。

誰かの記事で、「何かしらの自己表現は素敵なことで、それを持続させるには承認欲求を満たすことが重要」と言っていた。例えば、ツイッターなどの「いいね」をもらうことや、誰かに求められることetc.

正直言って、それは違う。そんなん中学生の悩み。俺くらいになるとそんなことはどうでもいいことに気づく。重要なのは自分が何をしたか。何を残せたか。誰の人生をねじ曲げたか。である。

もっと先のことを考えよう。承認欲求を満たした先に何があるの。たかが「いいね」のやりとりで何が生まれるの。何ができるの。何につながるの。ただの自己満足じゃないの。それは正真正銘の欺瞞だろ。欺瞞であることだけが本物だろ。皮肉にも程があるだろ。

俺たちからして憧れの人は、承認欲求を満たしていて、誰かから頼られているから、俺たちに夢を見せられてて、深い言葉を残して自己表現できてると思ってるの?馬鹿なの?

それは全て理想であって現実じゃない。俺は気づいたんよ。多分、多分だけど、夢を見せてくれる人や、背中を押してくれる自己表現者たちは、ずっと何かが引っかかっていて、ずっと悩んでいて、その悩みを払拭する手立てを考え行動していて、ずっとその呪縛に囚われてると思うんだ。そのもがいて苦し紛れに落としたものに俺たちは惹かれた。なぜそうなるのかはわからない。でも、そんな気がする。

俺は、最近まで、周りとの勝負の中心にいて、必死で戦った。めっちゃ病むし、心が廃てる気がしたし、ただの馬鹿なんじゃないかと思った。ただ勝つだけのために、取り返せないくらいの労力をかけた。全てを費やした。しかし、その勝負も決着が着き、幕を閉じた。それからは戦う相手が他人から自分に変わった。これがさらに病むんだわ。周りと戦わないことが、ゆるく感じていた。狭っ苦しい部屋から抜け出して、自由な世界に飛び出してみたものの、周りとの勝負のようにばちばちした熱いものを感じなくなったせいで、余裕ができすぎた気がした。このままじゃ俺は怠けてしまうと思った。だから、いろいろやってる。めっちゃ働いてみるし、詩や、作曲にも挑戦して、ひたすらに考えている。俺は今、しがらみもなく自由にできる幸せな環境だ。だからできることを精一杯やろうと。でも、実際は自分一人だけが意味もなく頑張っていて、本当に無意味で、存在意義のかけらもないなと思っていた。

でも気がつけば、それが誰かと深く関わり合っていたり、誰かの背中を少し押してることがわかったんよ。ほんとだよ?泣いてくれた人だっていた、俺がきっかけで何かを始める人がいた。何かを一緒に作ろうとしてくれる人がいた。

俺たちが憧れる人の理想の心・生活が「充実」と呼ばれるに値するものだとしよう。しかし、現実は全く充実じゃないのだ。自分の弱さを知り恥を知り、上には上がいることを知り失望する。それでも立ち上がってただ前に進んでいるに過ぎないのだ。だから、承認欲求が満たされたとしても、その後に疑問が生まれて同じことを繰り返すのだ。

一見すると、楽しくなさそうなのだ。実際楽しいものではない。だから、目が腐る。

要するに、承認欲求どころじゃないってこと。そんなのに振り回されるな。そんなところで止まるな。前に進め。そーゆう人種なんだから。俺たちは。

次回「重要なのは自分が何をしたか。何を残せたか。誰の人生をねじ曲げたか。である。」

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