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【超短編】夜明け

 すぐ、曲がり角の向こうまで来ていると、直通電話で告げられたものだから 着の身着のまま走って来たのに。夜明けは一向に気配を見せなかった。漆喰塗りの壁が直角に屈曲するこちら側で力もなく胡坐をかく。瓶ビールかっ喰らうにふさわしい、やさぐれた宵だ。
 けれども僕の節くれだった両掌は空っぽだった。家の鍵と事務所の鍵と、ラボに通じる裏口の鍵とを束ねてベルト通しにぶら下げる鎖紐が三流らしく音を立てた。その他に手頃な装備品など持ち合わせていない。足元に至っては某所から拝借したベージュ色のつっかけだった。時間はおそろしく緩やかに進んだ。
 「今にも夜が明けようとしている」とお前は確かに言ったのだ、逸る声で。一刻の猶予もない、切迫感が受話器から響いていた。
 「今にも、今にも朝が来るのだから」
 それだのに曲がり角の向こうからは音沙汰もなく、紫雲の明るむ予感や前兆の啼鳥とも無縁だった。僕はそろそろ苛立っていた。
 いっそ、こちらから夜明けを出迎えに行ってしまおうか。もう二年が経っていたが闇夜は漆黒を濃くするばかりだった。曲がり角の九十度が向こうへ「かく、」と折り曲がる一線の間際にクラウチング・スタートを構え、ピストルの空砲に勢いを載せて、跳び出してしまおうか。しかし、古代の智慧が愚行を押しとどめた。太陽神を待ちかね、おびき出す策略は慎重でなければならない。決して好奇心に負けて彼岸を覗き見ることがあってはならないのだ。
 続く年月を埋めるように、雨が降り、土の潤う匂いが立ち込めた。黒土が柔くほぐされ、植物が根付いた。はじめは軟弱な芽生えだったが、徐々に枝が広がり、葉が繁り、静かな結実を経て一顆いっかの林檎が僕の手許てもとに落ちた。術をうしなった自然が、皮肉な置き土産として、去り際の手の一振りに産み落とした林檎だった。
 赤くつややかだろう薄皮も暗がりの中では曇りがちな色に沈んでいたが、右手に握りこむと夜明けの確かな約束が薫った。僕は躊躇もなく、大袈裟なフォームで振りかぶり、その果実を曲がり角の向こうへひとおもいに放り投げた…。
 ガラス窓のなりふり構わず割れ砕ける音がした。
「今にも、今にも」
 遠い昔にお前はそう言ったのだった。次の時代を迎え入れる心づもりの固まらない僕だけが、モノクロのネガに焼きついたまま、黄金の洪水を前に立ち尽くしている。                     (おわり)


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