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【連載】東京アビシニアン(13)Kunitachi

「はい、市役所広報課です」
 リングトーンに反応し、咄嗟に電話口へよびかけたが、ツーツーという平板な機械音が返ってきただけだった。
「お電話ありがとうございます。市役所広報課、望月が承ります」
 隣の席で、先輩の望月さんが受電に成功していた。淀みのないお役所敬語で相手の用件を聞きとりながら、メモを取る手も休ませない。この人の電話対応は電光石火、十年目の中堅なのだからさすがだが、これだけこれ見よがしに横取りされてしまうと立つ瀬がなくなる。今週に入ってもう四回目だった。
 電話が終わるまでの間、メールの対応にあたっていると、隣から付箋メモが回ってくる。
「この間発注した広報誌だけど、納品が少し遅れるって業者さんから連絡。発行の当日には間に合うけど、配布先に届けて回るには時間がかかるから、各所に連絡入れておいて」
 平身低頭、付箋メモを押し戴く。望月さんは容量の悪いわたしに呆れ気味だ。いつもいつも、すみません。

 市役所の業務は変わり映えがしないのが何よりの吉報だ。つつがなく市民が暮らしている証拠。だからといって、電話とメールに返事するだけの一週間は未来みきから着実に覇気を奪っていた。望んで就いた職場だけれど、大学時代を思い返すと複雑な思いがする。マクロ経済、金融政策の動向、消費者の思考パターン。ひーひー言いながら論文を解読し、毎週のゼミ発表に間に合わせる日々。知識や経験を積み重ねたはずなのに、その先にあるのが電話盗り合戦なのが情けなかった。落ち着きと集中力を取り戻そうと、未来はシャツの襟元に潜めたペンダントトップをそっと触る。硬度の高い貴石は、未来がどこで何をしようと、銀座の店から連れ帰った時と同じ煌めきをたたえている。麻耶が褒めてくれた輝きだ。そう考えると、救われる気持ちがした。
 
 循環しないくぐもった空気に充たされたオフィスへお昼を告げる鐘が鳴り、望月さんが大きな伸びをした。未来も上体を逸らし、前のめりになった姿勢を正す。正午のニュースを確認しようと、誰かが課内のテレビを点けたので、にわかに明るい女子アナの声が場違いに響いた。
「今日は全国的に季節外れの暑さが予想されており~、都内の公園の噴水には涼を求める親子連れが水遊びに訪れています~」
 未来は小ぶりな弁当箱を机に拡げ、無感動に卵焼きを咀嚼する。母が詰めてくれたものだ。もう学生じゃないんだからと断ったけれど、普通のおかずを用意するのと労力は変わらないと押し切られた。
「未来ちゃん、自炊してるのね。えらい~」
 と褒めてもらえることもあり、騙すわけじゃないけれど、そういうことになっている。望月さんは廊下の弁当販売から買って来た白身魚のフライ丼をレンジで温めている。

 天気予報と日用品の値上げ、物損の交通事故について伝えていたニュースが、現場からの映像に切り替わる。都内の駅前に、段ボール製の安っぽいプラカードを立てた十人くらいの若者が立ちふさがっている。
「度胸あるねぇ。六本木のど真ん中でデモなんて」
 テレビの前を通りすぎた課長が、肩をほぐしながら独り言ちる。
 あらためて画面に目を向けると、若者たちは大通りを塞いでかなり大ごとに仕立て上げているらしかった。暴動にはならなそうだが、警察が介入しようと試みている。プラカードには『解放』『革命』『猫出てこい』の文字が読み取れた。猫って、何だそれ。
 参加者の男性陣に交じって、はっきりとした顔立ちの女の子がいるのが見えた。離れた場所からカメラを回すリポーターの肩口を掠めて、まっすぐな眼差しでカメラの中を睨んでいるようだった。なんだか不思議な動悸がした。
 どれだけ現状が不満でも、わたしはデモなんかには参加できないな、きっと。それだけの自己主張さえ、正当化できない、つまりは愚痴をこぼしこぼし世間の波に流されていく無力な大衆のうちの一人だ。シニカルな笑いが、卵焼きを口に含んだ未来の頬をゆがめる。

 六本木のデモのニュースもすぐに次の話題に移り、今度は旬のアスパラの収穫現場が映し出される。採れたてのアスパラにマヨネーズを漬けてかぶりつくリポーター。未来はスリープモードに切り替わって黒い画面をさらしているパソコンをぼーっと覗き込み、ふたたび咀嚼に専念する。生姜タレの肉団子、インゲンのゴマ和え、ナスのお漬物。午後は、そうだ、広報誌を配るはずの相手先にメールを書かなければ。課長の来週の予定を確認し、会議の用意もしなければ。頭の中で付箋を貼りながら、明日も、明後日も、来週も。プラカードを渡されたら、わたしは何と書くんだろう。
『求・有給!』
 そんなんじゃもう、抗議っていうか、こっちのシステムに染まってるよね。
 チャイムが鳴り、13時。パソコンの起動ボタンを押す。



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