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【連載】東京アビシニアン(8) Kunitachi

  麻耶マヤの笑顔に、私の口元にも自然に微笑みが浮かんだ。
「私も会いたかった。来てくれて、ありがとう」
「ううん。未来ミクのお願いなら、喜んで」
 私たちは並んでデパート前の並木道を歩いた。その間も、私はうつむいたり、ブランド店の瀟洒な間口をのぞき込んでみたり、ふわふわと足の浮く心地だった。時折、磨き上げられたデパートのガラスに私たちの姿が映った。肩の力を抜いた麻耶の歩幅の隣、念を入れて巻いてきた私の髪が背中の真ん中あたりで弾むのを見届けてから、大丈夫、と自分にささやく。不似合いなこともない、見劣りするなんてことはない。麻耶の方がずっとこなれているのは確かだけれど、今日は私だってきっと私なりに綺麗だ、一歩一歩夢の中の階段を上るように、銀座の人波に乗って流れてゆく。
「最近はどう? 仕事は順調?」
「まあまあかな。今年で三年目だからね、ちょっとずつ責任のある案件もまかせてもらえるようになった。春からは後輩もついたんだ」
「雑誌の編集部か、やっぱりかっこいい。憧れるな」
「今まで通りだよ、どこへ行っても。未来ミクのほうは?」
「区役所の仕事は変わり映えなし。特別なことがない方が、平和な証拠なんだけどね」
 私たちは、大学で同じ経済ゼミにいた。毎週火曜日の三限目に持ち寄った文献を輪読して、感想や考察をプレゼンする。五人いたメンバーのうちたまたま女子が二人だけだったから麻耶と私は仲良くなった。ゼミ前の昼休みは食堂で一緒に早めのお昼をとって、来るべき質疑応答の練習を繰り返したり。こんな廻り合わせがなければ私たちの学生生活はどうやっても交錯しなかったんだろう。その頃から、誰とも違う自律心の上に仁王立ちする麻耶の魅力は飛びぬけていた。
「将来は雑誌の編集に携わりたいんだ。東京の文化や新しい価値観を、広く発信したい。私ならできると思う」
 見掛け倒しのメッキではなくて本物の黄金を研磨したみたいな、そのものの輝きに目が眩むみたいだった。卒業して数年が経ち、私たちの道は枝分かれし、距離も途方もなく開いてしまった。わかっていたことだけれど、と苦笑いの端くれが浮かんでくる。麻耶が金色に舗装された未来都市への道を歩んでいるのなら、私の人生はそこからどんどん距離を置いた辺境に落ち着くしかないんじゃないかと、ふっと悲壮感が襲う。
 麻耶がガラス扉の前で歩みを止めた。
「ここだね」
「初めて入る」
「そんなに緊張しなくても。高級料亭みたいに、一見いちげんさんお断りなんてことはないんだから」
 シルバーのワンピースを纏った店員が愛想よくいらっしゃいませ、と迎える。鈴が鳴るような心地よい声。それから大理石の店内。あたりを全て取り込むのに、色々と見たかったけれど行儀が悪いようで我慢した。
「ネックレスを探していて。フォーマルな場面にも普段使いもできる、あまり光りすぎないもの……はい、三万円くらいで」
 肩に力が入って声も上ずっていた。店員がおすすめを裏から出してくれる間、隣の麻耶が無邪気な微笑みを広げて、
「楽しみだね。未来に似合うのがあるはずだよ」
 と励ましてくれるから、私は泣きそうなくらい、切なくなる。

 誕生石のトパーズのものと、小さいけれど正真正銘の一粒ダイヤをあしらったもの、それからマットゴールドのチェーンネックレス、三つでしばらく迷った。鏡の前にデコルテをさらして、きらびやかな鎖をとっかえひっかえ、私はどんな階級になったのか。反射の中、帽子の影からのぞき込む麻耶の表情が、チェーンネックレスを着けた時にぱっと明るくなった。
「これにします」
 と頷くと、すかさず後ろから麻耶が
「ラッピングお願いします」
 と付け足した。振り返った私に、
「今日は頑張ったご褒美にネックレスを買いに来たんでしょ? じゃあ、自分へのプレゼントっていうことで」
 と大らかな微笑みを返す。肌のきめが素晴らしく整った麻耶の頬の高いところ、日焼け痕のそばかすが愛嬌たっぷりにのぞいている。麻耶にはこれから訪れる夏がよく似合う。干し草やオレンジの匂いのする陽だまりに背中を灼いて、彼女はどの夏もくしゃっと私に笑いかける。麻耶の輝きが夕方の西日みたいに、両掌ですくえば火傷を負いそうなちたての黄金に思えて、私は知らず知らず目を細めている。
 私もこんな風に、なれたらいいのに。
 このまま麻耶と同じ世界に、いられたらいいのに。

 麻耶の眼はさすがだ。鎖骨のはっきりとは浮き出ない、曖昧な肉づきの首元にチェーンネックレスは自然に沿った。主張しすぎない、でもぐっと服や表情を引き立てる印象的な仕立て。それは黄みがかった洗面所の蛍光灯のもとでも不変だった。でも、私の顔色は不健康な土気色に沈んでいる。
 畳の自室で早くも床についた母が、寝返りを打つ気配がある。
未来ミクちゃん帰ってたのね。お米忘れちゃったから研いでおいてくれるかしら」
 半寝半起きの呼びかけに、返事くらいすればいいのに、答えられない、ちぐはぐな虚像の前に麻痺した私がこちらを見ている。

(つづく)

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