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【エッセイ風】フィクションが思考実験ならモルモットは会社に行くけど?

 「フィクションは思考実験。とある仮定のもとで、舞台セットと登場人物を配置する。それぞれの物性によって、柔らかさや跳ね返り係数、熱伝導率がちがう。準備が出来たら、作家の指先で、とん、と球をはじき、初速v(0)を与えてあげればいい。そうすると物語は物理法則にのっとって、ひとりでに動き出す。複雑な系だから、実際に動き始めるまで次の瞬間の予測はたたないも同然なんだ。実世界では起こり得ない、突拍子もない仮定から得られる結果が、思わぬ示唆をもたらすこともある。実験装置の運動をつぶさに記録すること、それがフィクションを書くということ」

 夢物語をこねくり回して遊んでいるのを、おちょくる人がいたら、理系チックな発想を振りかざして、こんな風に反撃しようと思っている。本当に意地悪く訊かれたことはないけれど、物語を書いているというのはしばしば哀れみや好奇の目で見られることもあるからね。理系出身とはいえ、物理が大の苦手だったのは、ここだけの秘密。

 天井から吊るした糸のもう片方の先に、球をつけたら振り子。その先にもう一本糸と球をくくりつけたら、二重振り子の出来上がり。一見単純な形をしている二重振り子だけど、初期位置と初速によって、つまり初期条件によって、運動の仕方は大きく変わる。少しの違いが大きな違いに増幅されて、予測のつかない、カオスが生まれる。フィクションを思考実験と呼ぶときのイメージの一つとして、わたしは二重振り子を思いうかべるのだから、さっきの言い訳はあながち作り事ばかりじゃない。

 書くことがやめられない人のさがなのか、知らないけれど。検証好きが高じてか、わたしはたまに、思考実験の顛末を、実世界で試してみる。例えば、感情のなりゆき。ある出来事に直面したときに、じぶんの感情はどんなふうに動くのか。人との別離、仕事での小さな成功、私生活のトラブル。いざとなるとシミュレーション通りにいくことも、行かないこともある。実験結果に従って、スクリプトに修正を加える。仮説は間違うこともある。

 そうなると、ひとつの疑問が湧いてくる。実験と検証、と呼び分けてみたけれど、ほんとうに実験はフィクションのほうなんだろうか? 仮説の検証にとどまらず、アウトカム見たさに、実生活に装置を仕掛け始めている。実世界では起こり得ない示唆を得るための教訓として、フィクションを玩具にしていたはずが、これでは実世界こそが広大な実験フィールドじゃないか。

 そこまで行くと、物語を完成させるために、実生活で実験に明け暮れているとしか、言えない。それに対する反論はまだ見つからない。どちらにしても、わたしは自分のモルモットなので、スーツを着て通勤電車に乗り、会社に向かう、毛足の長いげっ歯類が目撃されたとしたら、それはこのわたしです。


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