『満願』-太宰治
あなたがもし本を書くとしたら、どんなものを書きますか。
想像もつかない、とかいうくだらないもの以外はたいてい、自分自身の過去に由来し、その中のある要素を切り出したものや、あるいはいつかの過去に空想した全く関係のなかったりするものからインスピレーションを得るものが大半のような気がします。
そして、実際に書き始めると、当初の想像よりも遥かに、理想のそれを完成させることが容易ではないと気が付くだろうと思います。
彩やかで新鮮
『満願』は、文学作品の中でもある意味で少数派だと思います。インスピレーションという言葉を用いる時は、何かが別の何かへと昇華するプロセスがある時でしょう。そういう意味で、『満願』の執筆過程には、インスピレーションは必要なかったように思います。
ただ単に、ある人の人生の、ある場面から、恍惚的な感慨深さを切り取ってみた。そんな風に感じました。
『満願』には、ネガティブな描写が一切存在しません。
先生と仲良くなること、自分にはない新たな考えに触れること、毎朝お医者の家へ通い新聞を読むこと、その近くに小川が流れていること、毎朝牛乳配達の青年から挨拶をされること、若い女の人の美しい姿を見たこと。 その全ては、何かを新たに学び、培うとか、そんなものでこそないが、人生の美しい側面を思い出させてくれるのでしょう。
学校の試験じゃあるまいし
著名で偉大とされる文学作品を読む時、その中には巧妙に真実が隠されていると、本当に伝えたいことがあって、それはその暗号を読み解こうとする誰しもが読み取れるように作られている。
そんなことを考えながら読書をする人間は、過去の私の他にも、多少はいるでしょう。
例えば、この『満願』にこそ、伝えたい真実が隠されているかもしれないと言えば、本当のところは太宰治にしか分からないと思いますか?
私の意見はというと、心底どうでもいいというものです。
私にとっての文学とは芸術で、それはコミュニケーションです。情報伝達率100%のコミュニケーション手段を、今日の人類は持ってやしないです。だからこそ、一方通行の本という媒体で会話をするというなら、欠損した真実の答えなんかを探すのではなく、その不完全性を楽しむ方が、私は好きですよ。