『斜陽』-太宰治

長すぎる

『斜陽』を読んでいる途中から、この作品が長すぎることが最大の違和感でした。
それは単に、物語の文章量が多い、とかいうつまらない感想ではなく、仮に作品に込められた想いがあるとして、それを説明するためだけに描かれているとは思い難い描写が偏在しているということです。例えば、火事のエピソードとか。
それは最終的にどこかで全て繋がる場合もあるから、毎回そう思い込むべきではないにしろ、『魚服記』や『桜桃』などの短い作品が印象深く残っている私には気になりました。

結果的にかもしれませんが、私のこの注目は的外れではなかったと思っています。この違和感を感覚として私に与えたのは、私が過去にした執筆という経験だと言う他にないでしょう。
実際のところ、『斜陽』は太宰治(津島修治)の愛人である太田静子の手記がモデルであるという考えが一般的だそうです。
自分の過去、誰かの過去、何かの歴史をモデルに作品を作ると、作品に別の思念が追加され、フラットに執筆をする上では突拍子もないとも思えるものが付随してくる場合も少なくないと思えます。

ユニークなクイズかよ

『斜陽』は、実に色々で、様々な、そしてまたいくつかは同じベクトルの推移や軌跡を描いているように感じます。その要素はたいていバラバラになって、それぞれが少しずつあちこちに遍在しています。

その中で個人的に興味を惹かれたのは、蛇と蝮の対比でした。
作中、蛇は沢山登場しますが、蝮は実体としては登場しません。蝮はネガティブや最悪、忌として、蛇は美しいもの、狡猾で慧いものとして描かれています。
かず子の心に巣食う何かを描いた言葉のひとつでも、序盤では小さな蛇、終盤では蝮とされています。かず子が蝮の卵だと思って焼いたものがただの蛇の卵であったことも、かず子自身が穢されつつある、少なくとも、変化しつつあることを示しているでしょう。
母親が蛇を恐怖していることを加味すると、蛇というのは貴族の特徴を部分的に象徴したものであるのかもしれません。

お前も赤鬼にならないか?

他にも、かず子や直治を革命に誘った過程は、全体の流れの中で、それを少しずつ大きくしていきます。そのオリジンを言葉ひとつで形容する語彙として、これが相応しいかと言われると自信はないですが、言うなればストレスでしょう。
直治には貴族という呪縛、かず子には母親の死。現状を打破したい、変えたい、特にかず子の場合では、生きる理由、縋る先を探す、というニュアンスもあったでしょう。そんなストレスが、革命というものに必要な、大きなエネルギーを彼らへ与えたように感じます。

かず子と直治について、対比として捉える考え方がより多く存在しそうですが、私は別の考え方もあると感じています。
かず子の共産主義思想は、直治の本を無断で読み始めたことに起因しています。直治の革命への営みは母親の死をきっかけに絶え、それと同時に、かず子の革命への営みは始まります。まるでバトンが渡るように、この思想は受け継がれ、それはストレスに由来し、そのストレスは貴族の没落に由来し、貴族の没落は社会の過渡に由来しています。
社会が、道徳が過渡期を迎える時、それは多くの人を革命家にします。そしてそこには、直治のような犠牲者が居る。
もしも貴族が没落しなかったら、貴族が日本国憲法によって廃止されなければ、かず子は共産主義に興味も示さなかったかもしれません。いつかの昔に、友達からの本を読まずに返したように。

太宰治はどこにいるでしょうか?
(チクタク チクタク チクタク)
ココダヨ(裏声)  ココダヨ(裏声)

私は読書を始める前、いわゆる文豪というのは、未知を思い描く想像力が人智を超えるほど秀でているのではないか、と考えたりもしました。
ですが、少なくとも太宰治に関しては、そんな人外染みた人間ではないかもしれません。
『桜桃』の主人公にも、『斜陽』の直治にも、『人間失格』の葉蔵にも、太宰治が居ます。自殺をしてみたり、薬物乱用してみたり、自分の信念を持てなかったり、そんな特徴が共通しています。
完璧な人間、すなわち、個体差の失われた人間というのは、これ以上楽しくない存在はないだろうと思います。自分自身を概念とし、その要素を部分的に切り出し、時には誇張し表現する。それをやり取りする営みは、我々をより豊かにしてくれるものだと感じています。
文学の、芸術の価値はそこにあると思います。
この記事もまた、そのひとつです。

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