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モンテスキューと同い年のシーサー

沖縄最古のシーサー🦁1689年製.
1689年と言えばモンテスキューの生まれた年であり、松尾芭蕉が江戸の深川タウンにサヨナラバイバイして奥の細道の旅を始めた年でもあります.

このシーサーら先の大戦時,米軍の身隠しに使われた写真が有名である.

下の画像の[富盛]と書いてあるエリアに米軍の第381連隊が進駐しており(赤線)日本軍の特設第六連隊と対峙していた(青線)

私が訪れた際には戦後74年間の雨風により薄くなってはいるものの当時の弾痕を確認することが出来た.

それよりも弾痕を探そうと近くで見たら連日の雨のせいかヤスデが湧いて大量にへばりついていたのが痛烈でした.トラウマになりそう.

この場所へは八重瀬町の脇道をウネウネ行くとたどり着きます.ここに至るまでのメインストリートに,似ても似つかないこの獅子のレプリカがあり,それに満足して帰る人もいるとかいないとか.

近くまで来ると,勢理城(ジリグスク)入口となり

結構険しい坂の途中に駐車場があって,その城跡の高台に石彫大獅子が鎮座しています🦁

せっかくなので勢理城に関する文献もあたったのですが,いつ頃出来たのか,誰が建てたのかサッパリ分からないらしい.

沖縄は統治者が変わったり,戦地になったりして写本されていない資料は途絶えがちなようです🤔

一方,石彫大獅子の資料は残っており,沖縄の正史『球陽』の西暦1689年の項に『始めて獅子形を建てて八重瀬嶽に向て,以て火災を防ぐ.東風平群冨盛村は屡々火災に遭い,房室を消失して民其の憂いに堪えず.是に由りて村人,蔡応瑞(唐栄の太田親雲上)に請乞して其の風水を見せしむ.応瑞,遍く地理を相し,之に嘱して曰く,我,彼の八重瀬嶽を見るに,火山に係る.早く獅子の形を作り,八重瀬に向くれば,以て其の災を防ぐべしと.村人皆其の令に従ひ,獅子石像を勢理城に蹲坐せしめ,以て八重瀬に向く.爾よりして後,果して火災の憂を免るると得たり』とあります.

要するに【なんかめっちゃ村で火事起きるから近くの村の占い師に占ってもらったら「隣の八重瀬嶽に火の精?魔物がおるわ。魔除けとしてシーサー作って八重瀬嶽向けて置くといいよ」と言われたんで作って置いた,そしたら火事起きなくなった!シーサーめっちゃ凄い!】みたいな流れだったらしい.

ここで獅子の向いている方向に八重瀬嶽があるかどうか見てみた,が…しかしある事にはあるのだが,なんだかちょっとズレている(ような気がした)

300年以上経っているとは言え地殻変動が起きたとも考えにくい.

色々調べていたら石原信榮氏による新しい説を見つけた.
『当時は、神聖な八重瀬岳から木を切り出してはいけなかったため、村人たちは、火を起こすためにサトウキビや木の枯れ葉を利用していた。村人たちは、火災の原因が八重瀬嶽にあるのではなく、燃え広がりやすいそれらの燃料を自分たちが不注意に扱ったことにあるのだと分かっていた。しかし、獅子作りは首里王府からの命令である。しかし、魔除けのための獅子を神聖な八重瀬嶽に向けることはできない。悩んだ村人たちは、獅子が八重瀬嶽に向かないよう、少しずらして置いた。 』というものである.現に氏が測定した所ズレていたそうな(やっぱズレてんじゃん!)

アレ?占い師にお伺い立てたんじゃなかったの?と疑問は残るが第二尚氏時代の琉球王国は首里に王族がいて首里と富盛は5キロちょっとしか離れていないので無い話ではないかもしれない.

ちなみに沖縄を回っていると屋根にシーサーが居たりしますよね.

かつて沖縄には身分による家屋制限令があり,一般庶民が木造瓦葺きの建築ができるようになったのは1889年以後で沖縄独特の屋根獅子の普及は20世紀に入ってからなようだ.意外と最近なのね.

そもそも木造じゃなかったら何に住んでいたのだろうか.

那覇市一帯を始め幹線道路が通っているような所はすっかり都会じみて沖縄“らしさ”を感じる家屋が少ないが,南東部や北部の方にいくとそれっぽい建物が散見されて非常に良い.

なんでもビルをおっ建てれば良いもんじゃないと思うのはエゴだろうか?

沖縄県庁なんて昔のしまんちゅが見たら腰抜かしそうな建物である.

74年前,まして6月の沖縄は激戦の真っ只中であった.4月の始めから6/23まで続いた戦闘は想像を絶する.米兵が写る獅子の写真も,最新技術で色付けすると(渡邉英徳さんによる)

そこには今と変わらない緑と青い空があったのだとモノクロ写真では得られないことを実感させられた.
見える景色は変わったが,まさにこの場所なんだなと.

自分ごときが口にするのはあまりに軽薄になるが,一通り資料を見ても戦争に善も悪も無いように思う.
もしそれらがあるとしたら善も悪も悍ましきものだ.

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