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339 過剰な自分と折り合いをつける

何かを書くこと

 長いこと、ライターとして記事を書いてきた。主に他人のことを書いてきた。インタビューをしたり、取材して得た情報をまとめる。そこに自分の入る余地などはない。口を酸っぱくして「客観性」とか「客観報道」みたいな話を聞いて育っていたものの、一方ではすでに「ニュー・ジャーナリズム」というものが存在していて書き手の主観を取り入れながら記事を書くことも「あり」となっていた。その点で沢木耕太郎への憧れがあった。いまでは、新聞でも署名入りの記事が増え、ネットにおいても自分を前面に押し出した記事がむしろ一般的になっている。
 ブログの全盛期もそうだったし、このnoteもそうだけど、「はじめに自分ありき」である。まして小説や詩、短歌、俳句、川柳といった表現に手を出そうものなら、そこにはまず自分がなければならない。
 私は、こうして物書きとしての仕事の序盤は客観性に徹してきて、最終的には自分では記事を書かず編集あるいは一種のプロデュースに回った。自分が手を出してしまうと、そこに自分が入ってしまって気持ち悪いからだ。
 いま思っても、転々と媒体を移っていたのだが、自分の仕事は最後には自分を排除する仕組みづくりにあった。自分じゃない誰かに渡して、同じように動く仕組みを作り、私はそこをサヨナラと出て行ってしまう。
 ところが、最終的には書籍のライティングをやるようになって、必ず著者の思いを表現していく手伝いをしていてもなお、そこには自分が入り込んでしまう。あとで読み返して「あー、これ、おれだなあ」と思ってしまう。社史を書いたときもそうだった。読み返すとあちこちに自分が顔を出す。まったくもって嫌になる。そんなつもりはなく、クールに表現していたつもりなのに。
 結果、どうやら自分ってやつが過剰なのだなと気付く。

しょうがないので自分を変える

 そしてある時から、自分では「モード」と呼んでいるけれど、複数の自分を書き手として生み出し、育成するようになった。このnoteを書いている「本間舜久(ほんまシュンジ)」もそのひとりだ。自分としては、媒体によって「自分」のモードをチェンジする。いや、それはギアチェンジほどにカッチリしたものではなく、媒体と書くことの雰囲気に合わせて自然にモードが変わる。
 自分の中にある自分の要素を、どう出すかは、モードによって変わっていく。ほとんど自分は出て来ないようにもできるし、全面的に「おれ」ということもある。
 要するにしょうがないので自分を変えてみた、ということだ。たとえば滝藤賢一という俳優は、その髪型が劇的に変化する。あるときは直毛の七三、あるときはアフロ。あるときはジョン・レノンのような長髪。時代劇では当然、ちょんまげである。
 ああいう感じで、モードをチェンジするのはありだろう、と私は思っている。というか、その方が絶対に楽しい。いつも代わり映えしない自分の顔を鏡で見るのではなく、いつもと違う自分を見る。モードを変えていけば、それがある程度はできる。必ずしも成功するとは限らない。それは髪型もそうで、思い切ったチェンジをして失敗することは珍しくないだろう。ただ、失敗を恐れない。少なくとも書くことにおいては、たとえ自分のモードが失敗したとしても、文章としてちゃんとしていればいいのであってそこは手を抜かずにやり切ればいい。
 過剰すぎる自分を持て余すのではなく、上手に利用してみる。
 ただ、それはほかの人に明瞭にわかるものではなく、あくまでも書き手としてのこっちの話に過ぎない。

終わりそうで終わらない。


 

 

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