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71 小説「ライフタイム」 7 蠱惑

新雑誌

 雑誌に夢中だった。
 業界紙に入ってからより雑誌が好きになっていた。『山と渓谷』『SFマガジン』『ビックリハウス』(1985年に休刊)、『ぴあ』『ADLIB』『本の雑誌』『広告批評』『噂の真相』など、さまざまな雑誌を読んでいた。こうした商業誌に比べれば、ぼくが打ち込んでいる業界の雑誌は、いわゆる専門誌の範疇に入る。八重洲ブックセンターには置かせて貰っていたが、通販専門だった。
 その頃、会社はいわゆる書店流通とは疎遠で、トーハン、日販のいわゆる「口座」は持っていなかった。
 そもそもそれほど流通できる部数を刷っていなかった。
 記者は諦めていたが、次は雑誌編集で少しでも多くの部数を持つ雑誌にしようと努力していた。
「詳しいね」とその男は言った。
 「蓄財時報」からのいわば使者と会社から少し離れた喫茶店で会った。初めて会う中年の腹の突き出た男で、「ホフホフ」と笑う。いまから思えばそれはサンタクロースのイメージに近い。それがドブネズミ色のスーツにはちきれそうな体を押し込んで、頬を紅潮させながら、「新雑誌」について語っていた。
 ぼくはまだ会社で2年しか経験しておらず、雑誌経験もやっと1年やり続けたところで、とても彼が目論んでいる規模の「新雑誌」で、なにかがやれる気はしなかった。
「フジワラ君からあなたのことを聞いてね」と言う。
 彼があのあとどうなったのか、その男に聞くのも失礼だし、そもそもぼくはフジワラとそれほど交遊があったわけではない。
「あなたなら、やれると推奨してくれたんだ」
 まったく乗り気にならないぼくだったが、彼の「一度、会って欲しい」との要望につい好奇心が勝って了承してしまい、夜七時頃に、例の麻布十番に出向いて、「蓄財時報」のオーナー社長と面談した。
「そうそう会えない人ですよ」と男は言う。オーナー社長が「新雑誌」の名目上の編集長になる予定で、いわば彼の顔で売ろうとしていた。実質的にはぼくに会いに来た巨漢が編集長。ぼくには副編集長になってもらう、と言われていた。
 夜七時のそこは、まさに活況を呈していた。外から見るとマンションにしか見えなかったが、ワンフロアの事務所になっており、奥にパーテーションで仕切られた社長室があるものの、オーナー社長は編集部にも席があって、基本的にはそこにいるようだ。編集部は十八人ほどもいて、女性は二人ぐらい。それだけの規模の編集部に足を踏み入れたのは初めてだったので、少し心が躍った。
 オーナー社長は、オープンな応接セットで、ぼくと巨漢に向かって新雑誌の夢を語った。
 外為法改正から加速する金融自由化の中で、流行していた「財テク」の話をし、すでに人気のあった「ビッグ」「ワイド」「ヒット」「トップ」といった金融商品、変動金利、MMC(市場金利連動型預金)などなど、定期預金あるいは変額保険などの商品群がつぎつぎと登場していた。
「いまは預金、債券中心だが、いずれこれは株式にも広がっていくだろう。個人投資家が増えるということだ」とオーナー社長は熱弁する。
 当時のぼくの知識では追いつけない部分もあったが、確かに世の中の流れとしてはそうなのだろうと思いつつ、壁に掲示されているオーナー社長と歴代首相との写真などを眺め、とんでもなくキナ臭い印象を受けた。
 そもそもフジワラが勝手にぼくを売り込んだことも気に入らなかった。

社長の思惑

 雑誌中心の仕事になってしまい、大多数の者が工場(印刷所)に詰めている新聞の降版日。ぼくは久しぶりにその喧噪の中へ飛び込み、手伝いながらまこさんに相談していた。
「やめときな」とまこさんは「蓄財時報」のことをひと言で切り捨てた。「それなりにやれると思うけど、フジワラもそうだし、そこの社長ってのも、うちと関係があるんだよ」
 副編の梅宮が補足する。
「恨みでしょ、恨み」とまこさん。「男の嫉妬は根深いからね」
 どうやら、あのオーナー社長は、いまぼくがいる会社の創業メンバーだったらしく、某大学の同級生だったらしい。だが、経営方針を巡ってすぐに対立して数年で決別し、歴史があるだけで低迷していた「蓄財時報」に入り込んで建て直した。それ以来、こちらの社員を引き抜くことが一種の復讐になっているとかで、フジワラもそうやって辞めて「蓄財時報」の仕事を請け負っていると言うのだ。
 そのあとは、まこさんと梅宮が、ぼくの知らない先輩たちの名を挙げて「あいつもだ」「こいつもだ」と片手に余る人数が、そうやって引き抜かれていったことをおもしろおかしく話していた。
「いま、編集、何人ぐらいいた?」とまこさん。
「十数人ですね、島が三つあって、六人ずつで十八人はいた」とぼく。
「へえ。すごいね」
 そこに、広告と記事広告をチェックしていた営業の田所けいちゃんがやってきて、「あそこは代理店と組んでいるからね」と吐き捨てるように言う。「営業はほとんどいないだろう」
 それは、非難しているようでいて、一種の羨望でもあっただろう。広告代理店と組めば、営業の大半を任せることができ、大きな営業企画も打てる。その分、代理店は手数料を取るので収益は落ちる。それを上回るぐらい、雑誌を売ればいいのだが、そんなことができるのか。
「で、どうするの。だいたい、そんなこと、こっちに聞いてきたやつ、いないんだけど」とまこさん。「みんな、黙って辞めて行くよ」
「そうなんですか」
 ぼくはなんとなく、まこさんに相談してから決めようと考えていたのだが、確かに、他社の引き抜きにあっていることを社内で言いふらすのは、妙な話であった。
「明日、断ります」とぼくは告げていた。
 (つづく)
──この記事はフィクションです──


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