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306 未来をどこまで考えるか?

今と未来の関係

 どうやらこんな募集をしているらしい。

 何事もチャンスだ、と考えている人にとっては、これもチャンスなので参加してみるのもいいかもしれない。
 しかし、私はそうではない。チャンスはいっぱいある、と主張する人もいる。だが、私は世の中に自分にとってのチャンスはそんなにない、と思っている。「なにげなくやってみたらうまくいった」的な話、あるいは「親兄弟友人らが勝手に応募して」的な話。眉唾だ。
 なにも、努力が報われる、努力こそが美しい、と主張するわけでもない。努力せずに目的を達成できるならそれでもいいだろう。
 要するに、目的をどこに置いているのかによって、チャンスは変わってくるし、努力の量や方向性も変わってくる。それを無視してチャンスに飛びつくのは、どうかなあ。
 チャンスに対してなにをするのか。それは、目的によって変わってくるはずだけど、目的を曖昧にしておくと、とりあえずの努力だけしてみて、結果を知って一喜一憂ってことになりそう。
 それだと、おみくじに近い。漠然と悪くない結果を期待しておみくじを引く。いくばくかの費用のほかには大した努力は必要なく、結果だけが知らされる。「やった、大吉」と喜んでもいい。「残念、凶」とがっかりしてもいい。
 では、おみくじを引くのはチャンスだろうか? あるいは、このおみくじのようなチャンスを求め続けていたら、自分はどうなるか?
 未来を変えたいのでチャンスを求める。とはいえ、その未来は、今とつながっている。今を変えることが未来を変えることになる。そのために必要なチャンスとはなんだろう。

老人に未来はない、か?

 だいたい中年ぐらいから人生を見限るというか、「こんなもんかな」と決めてしまう人が出てくる。まして高齢者、年金生活者となったときには、「もう未来なんてない」と諦める人も増えてくるだろう。
 だけど、よく考えてみたら、今日、なにをしているのだろう? 未来は今していることがつくる。あるいはしていないことがつくる。なにをして、なにをしていないか。
 寿命は人によってかなり違う。若くして亡くなる人もいれば、百歳生きる人もいる。どちらも同じ未来だ、同じだけチャンスがあった、と言えるだろうか?
 70歳の自分のために、50歳の自分はなにが出来るだろうか。50歳の自分のために30歳の自分はなにができるだろう。同じ20年先の未来を考えているけれど、30歳に比べて50歳はチャンスが減っているのだろうか? 「宝くじでも買おうかな」ぐらいしかチャンスはないのか?
 そんなはずはない。
 極端な話、90歳の自分のために70歳からなにかをはじめてもいい。そこにはもうなんのチャンスも残っていないのか? やるだけムダか? バカバカしい努力か?
 私の個人的な感覚では、20年後を考えた今日の過ごし方を実践している人は、世の中にそう多くはないだろう。みんなやっているのかわからないけど。こっそりやってたりして。人には言わないで。
「新型NISAでもやっておくか」といった意味での行動も、漠然と「老後の資金づくり」を想定しつつ、現実にはNISAには月1万しか入れず、遊びに3万円パッと使ってしまうのでは? 「だってストレスが……」。そう、今日の行動の中には、ストレス発散の行動も含まれている。なにしろ、ストレスを溜めこむと20年後なんてやってこないかもしれないし。
 とはいえ、ただ20年後も生きているためだけの今日なの?
 未来を漠然と考えていると、自分の人生の目的からズレていても気付かない。もちろんさまざまな力によってズレは生じる。目的は変化する。目的は大きくなったり小さくなったりする。目的にもインフレもあればデフレもある。目的をたまにちゃんと見るだけでもいい。今日のTODOに目的を考える時間を入れる。そして今日、そのために何をしたか考える。
 人類の未来とか言っちゃうともう個人の手には負えないので、未来を自分の目的として、かなり身近なところに寄せておきたい。手元に置いておきたい。いつでも眺められるようにしたい。そうすると、今日しておいた方がいいことも見つかるから。たとえば、なにかについてネットで検索したりAIに聞いてみるだけでもいい。
 これを簡単に言ってしまうと、「今日の私が未来の私をつくる」。これじゃまるで政府広報だ。とても当たり前な話。チャンスがあろうとなかろうと、当たり前の話なのだから大して違いはない。つまりチャンスのあるなしを考える必要なんてない。
 残念ながら未来がどうなるか、誰にもわからない。だけど、今日、自分がしておいた方がいいことは、間違いなく存在している。

今日も絵を描いた。ちょっとだけ描いた。



 
 


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