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174 変わりゆく街の中で

古い木造住宅は消えて行く

 都内某所に住んでいる。かれこれこの界隈に20年以上住んでいる。その前にも別の都内某所に住んでいて合計で30年を超えた。生まれ育った横浜某所にいた時間よりずっと長い。
 最初にいま住んでいる場所を見つけたとき、周辺にはいわゆる長屋の名残りの家が多かった。数軒が壁で繋がっている木造の住宅だ。二階には物干しのベランダがある。玄関はガラスの入った戸。すぐに道なのだが、金魚鉢を置いたり、鉢植えを積み上げたりもしていた。
 スーパーとコンビニが近くにあって便利ではあるものの、店を選ぶことはできない。天気のいい日は店の外に品物を押し出して並べているドラッグストアや、おでんのタネを売りつつ、おでんそのものも売っている店、スーパーと銘打っているものの、乾物のほかは手作りの惣菜を並べている店、市場と称しているものの、米屋、肉屋、魚屋などの寄り合いのような店。
 とても便利がいい街でありながら、人通りは少ない印象だった。
 それがどんどん、マンションになっていった。もっとも私自身、最初からマンションに住んでいるのであるけれど。
 それがこの10年でさらに加速している。マンション化がすさまじい。個人商店はどんどん減っていく。布団屋、惣菜屋、魚屋と消えていき、コンビニは同じぐらいの距離に4店舗に増え、最近5店舗目が登場した。牛丼チェーン店は吉野家も松屋もある。銀だこも来た。コージーコーナーも出来た。スーパーも増えている。前からある地元スーパーも健闘しているが、大手が進出した。さらに業務スーパーも登場。今度はドンキホーテができる。以前からある肉のハナマサも含めると、店としては十分過ぎる気もする。
 そしていまも窓の外を見れば、いくつものクレーンが稼働していて、ざっと6棟はマンションができそうだ。最近できたマンションの駐車場には外車ばかりで、フェラーリやポルシェも珍しくない。これが下町だろうか。
 なんだか、追い出されるような気がしてしまう。

人口増は活気を生む

 木造住宅が減ってマンションが増えると、いっきに住人が増える。それは、街を歩いていても感じる。閑静といえば聞こえはいいが、閑散としていた一角でも、いまは人があふれている。見渡すと誰もいない、ということがゼロになった。一時、あれほど減っていた子どもたちの姿もいっきに増加している。おかげで、塾も増えている。
 なんだかいま日本全体で問題になっていることと、いま自分の前で見えている光景は矛盾している気がする。
 こんな大きな変化が起きている街なのに、「住みたい街ランキング」などではまったく登場しない地域である。それにはいくつか理由があるけれど、その理由を書くと、どこに住んでいるかバレてしまうので書けない。
 いろいろと特殊な事情、あるいは街の歴史を抱えながらも、ぐいぐいと大きく変化しようとしているのは、たくましいとも言えるけれど、街をずっと眺めていた者としてはちょっと心配にもなる。
 とくに人種の多様性。旅行者だけではないのである。マンションの住人として多国籍化している。粗大ゴミの出し方を知らない。伝える方法がない。張り紙は日本語だけでは、役に立たない。管理組合の理事会なども、きっと今後は多国籍化するだろう。通訳が必要だ。
 文句を言っているのではない。街が変化していくとき、その変化に追いつかない部分が目立っていくことになるだろう。そこに、自分がいる気がしてならない。追いつけない側としてだ。
 火災という危険性が目に見えて減って行くことは、防災面でいいことかもしれないけれど、根底から街が変わっていくことについては、あまり深い議論が起こらないようで、おそらく問題提起は新しい多国籍な住人たちが手を挙げるまで待つことになるのではないだろうか。
 果たしてそのときにどんな対応をすることになるのだろう。不安というよりはそこにちょっと希望も感じてはいるけれど。同時に、自分はここにいつまでいられるのかと考えたりもする。
 ここまで書いて、実は今日はどうしても園子温の映画について書きたかったことを思い出す。しかし、いまの状況でこの監督に触れることがいいのかどうか私には判断がつかないので、今日はやめておこうと決めたのである。だから、こんな話になってしまったわけだ。
 なにかをなにかから守るために、壊れていくものがある、ということを考えているだけである。

完成(ということにしよう)


 
 
 

 

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