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277 ファッションの欠落

好きな格好をする

 私のこれまでの生きてきた日々を振り返ると、いろいろと人間として欠落している部分がある。たとえば絵については、いま少し意識して取り組んでみることで、昔の夏休みのラジオ体操のような意味でのハンコを貰う感じになっている。ハンコさえ貰えればそれでいいのである。
 一方、取り返しがつかないというか、もはやそこに踏み込んでもしょうがないと諦めている欠落部分もけっこうあって、それを書いていたらしばらくnoteの題材に困らない気もしている。誰が読むんだそんなもの、との声はあるだろうけど。
 第一に、ファッション。
 生まれてこのかた、私自身のファッションへの取り組みは、ゼロとイチの間のどこかで、閾値量(いきちりょう)を超えていない。観察に値しない。観察できない。
 子どもの頃は、母親の決めた服を着る。学生の間は高校まで制服があった。制服を着ないときの服装は、デパートで母親が買って来たものを着ていた。一緒に買いに行っているはずだが、記憶はほとんどない。まったく興味がなかったのだ。
 高校時代、Tシャツとジーンズだった。山登りをするようになり、ヘビーデューティーな服を選ぶようになったので、いわゆるペンドルトンのウールのシャツを2枚買うだけでも大変だった気がする。高いからだ。そしてラグビージャージ風のシャツが流行ったこともあって、これも丈夫なものが多く、襟元のボタンは柔らかな素材になっているのが特徴で、ボーダーのものと、胸元にオールブラックス(ニュージーランド代表)のシダの葉のマークをあしらったシャツを着ていた。
 そこからポロが好きになって、ポロシャツも手に入れたはずだ。
 バイトをするようになって、自分のおカネをそういうものに注ぎ込んだのだが、それはファッションでありながら、購入先は登山用品店だったりもして。パタゴニアやノースフェイスも買ったはずだ。
 ヘビーデューティーな服は、本当に長持ちするので高校から大学へとほぼ同じ服装で通していた。
 スポーツをしない男のくせに、服だけはスポーツ用品店で買う、みたいなふざけた行動を取っていた。

社会人になっても変わらない無関心

 社会人になって最初はもちろんスーツである。とはいえ、営業の仕事をやめてネクタイをしなくてもいい出版関係の仕事について(とはいえ、スーツにネクタイを求められることは多かった)、シャツとジャケットで過ごすことが増えた。これの便利なことは休みのときでも、似たような格好でいいことだろう。少なくとも、私は、学生時代からのヘビーデューティーな服と、シャツとジャケットでしばらく生きていた。
 冬用にヘリンボンのツイードを買い、大切に着ていた。ジャケットは肘アテがあるタイプを好んだ。アクアスキュータムのトレンチを着ていたこともあった。手元にあるおカネと相談して買える範囲でしか買わないので、どうしてもそれが欲しい、ということではなかった。
 社会人になって多少、拘りが出たのは靴かもしれない。営業のときに先輩から「おまえ、靴はピッカピカだぞ、絶対だぞ、毎日だぞ」と言われてきた。ピカピカに磨くに値する革靴を買うようになった。とはいえあまり高いものには関心がなく、リーガルである。この頃のリーガルは、確か3足あって、底を貼り替えたりしながら十年以上履いていた。もちろん、ピカピカである。
 フリーランスになったときも、スーツは役に立つ。世の中、スーツにネクタイしているだけで、信用される。目立たなくなる。どこへでも行けてしまう。特殊なドレスコードのあるところは別だが、まあ、大抵のレストランでもスーツにネクタイならOKだ。
 あとは、なんといってもユニクロである。初期フリースは、とにかく丈夫で何年も着ていた。その後も、ユニクロはときどき買う。
 結婚してからは妻の眼力、センスに依存している。なにを着るか、どういう組み合わせがいいかは、妻に聞く。面倒になったときだけ、自分で勝手に着る。
 こんな調子なので、ファッションについてはまるで語る言葉がない。ましてこの20年ほどは、「お試し」の会員に登録したこともあって、上から下までほぼ、「お試し」で手に入れている。靴下、ズボン、シャツ、帽子。ベルト。気に入ったものは買い足してもいる。同じでいい。
 たまたまGUで靴下のセールをやっていて、久しぶりにお試しではない靴下を購入した。すると、履き心地、通気性ともに素晴らしくよくて、世の中にはこんなにいい靴下があるんだあ、と感心してしまう始末である。これまでの「お試し」の靴下にいい評価をあげすぎたな、と反省している。

ミステリーゾーン。まだ途中。


 
 

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