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36 可愛さの無限性

広すぎる「可愛さ」

 先週の大河ドラマ『どうする家康』40話から、主役の松本潤が急激に老けた。メイク技術は素晴らしい。多くの人が持っているタヌキ爺としての家康に近づいた。
 かつてマツジュンと言えばアイドルで可愛いと言われていた。それがタヌキ爺でも可愛いか。
 そもそも「可愛い」「カワイイ」といった表現は、戦後の日本であっという間に社会において大きな比重を占めるようになってきた。「可愛い」と評価されるのと「可愛くない」と評価されるのは、天国と地獄である(かのうように受け止められている)。
 いや、実際には、天国でも地獄でもないのだが、あたかも、天国と地獄ぐらいの差があるような認識がまん延している。
 しかし、考えてみれば可愛さは瞬間を切り取った評価であるのに対して、「可愛くない」は永続的な評価になりがちだ。この時間軸はとても不思議で、そのため、基本的には「可愛くない」ものが、ある時だけ「可愛い」と評価されることが起こる。
 このため、可愛さの軸は大きくブレてしまう。
 ルッキズムだった「可愛い」が、いまは見た目では判断できず、それぞれの価値基準によって決まっていくので、さらによくわからない。そして、もちろん、従来からそうであるように、少し見下した意味でも「可愛い」は使われている。
「可愛いわね」
「バカにするなよ」
 といった会話が成立する。

自分の子どもは可愛い

 「かわいさ余って憎さ百倍」という言葉もある。可愛さが余ると憎さになる。「ニクイね」という意味とは違う憎さだろう。これは、「可愛い」がとても主観的なもので、客観性に乏しく、双方向性も乏しいことを意味しているのではないだろうか。
 そのせいだろう、自ら自分は可愛いとアピールする人は、嫌われる。たとえ自分は可愛いと思っても、他人に言わせなければ無意味どころか、反感しかかわないのである。
 それでいて、「可愛い」と言われて喜ぶケースもあれば「ふざけるな」と怒る場合もあるのだ。相手は自分の可愛さにそれほど価値を見出していない。あるいはこの「可愛い」基準を屈辱と感じる。あるいは安易な「可愛い」を否定する。
 可愛さの最高峰は、恐らく子どもであろう。しかもそれが自分の子ども、あるいは身内の子どもである場合、特別に可愛いとされていて、むしろそれを「可愛くない」と言う大人の方こそ問題視されてしまうだろう。
 そしてもちろん、私も自分の子どもは可愛い。他の子のことは知らないし、可愛いかそうじゃないかといった基準では見ていない。
 昭和の終盤に生まれた子なので、すでに40代になっているのだが、子は子である。可愛いかと言われたら「可愛い」と反射的に思える。それはもう、実像を直視していないのだ、と批判されたとしても、だ。

それなのに無限に広がる

 世の中を見渡すと、40代の「子」は大勢いる。たとえば、コンビニに行けば、さまざまな世代の子を目撃するのだが、ぜんぜん可愛いと思ったことはない。すべての40代は、40代の人である。可愛いといった基準で見る対象ではない。
 たとえば、小池栄子、広末涼子、優香、壇蜜といった人たちがその世代であるが、「可愛い」と表現できなくもないものの、むしろ失礼な気がしてしまう。美しさや、キャリア、ライフスタイルなどを褒めるべきだろう。
 そのためには、その人のことをよく知らないといけないので、「可愛い」はよく知らなくても言えてしまう安直な評価とも言える。安直で、主観的なのだ。つまり思い込みであり、相手からすれば「勝手なことを言っている」わけである。
 さらにたとえばお年寄りについても「可愛いおばあちゃん」といったように使われて、人間としての最終局面でもまた「可愛い」基準で判定されるのだ。子どもじゃなくても、若くなくても、「可愛い」となってしまう。
 「可愛い」は最強のフレーズとしてきっとこれからも、君臨するのだろう。
 でも、可愛いくなろうとしても無理。他人の評価しだいだからだ。
 果たして私自身、可愛い年寄りになれるだろうか。目指すだけ無駄なら、憎たらしい爺を目指すべきか。

 
 


 

  
 

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