104 「なぜ」の向かう先
つい言ってしまう「なぜ」
なぜ、こうなったのか。なぜ、防げなかったのか。なぜ、逃げられなかったのか。なぜ、相変わらずスムーズな救援ができないのか。なぜ政府は後手後手なのか。なぜ、なぜ……。
2024年は元旦から「なぜ」の連発が続く。
いつも思うのだけど、普段、あまり「なぜ」を発しない人までもが、「なぜ」を連発してしまうのは、なぜなのだろう。
そして、もしその答えを得られたとしても、納得できるかどうかは、私の直感では五分五分である。
「えー、だとしてもさ」との思いが残ることが多い。
明らかな理由のある事態は、この世では少ないのかもしれない。あの世のことはわからないものの、あの世があるとしても、そこでもきっと「なぜ」は飛び交っているような気がする。
まして、20世紀終盤になって一般化した複雑系のおかげで、すっきりしたわかりやすい解答は、ほぼ得られなくなった。最初に出てくる解答では満足できず、また「なぜ」を繰り返し、分解していくうちに、それらしい解答に行き着くならいいけど、むしろカオスに陥ることさえある。
もっとも正しい答えが、それを理解するために大学院レベルの知性を持たなければならない、というケースもあり得るだろう。理解できない答えは、どれだけ分解したところで、こちらが知識をしっかり持たない限りは、意味のある答えにならない。
その意味で、現在の「なぜ」は、軽々に発してはいけないのではないか、と思ってしまう。
だいたい、私だけかもしれないが「なぜ」と問いたいとき、それほど明解な解答を得たいとは思っていなかったりもする。ほかに反応の方法が思いつかない、あるいは気の効いたリアクションができなかったから、「なぜ」と取りあえず言ってしまっているのかもしれない。
「なぜ」と問いたくなる理由
人々の「なぜ」には、いくつかの理由があるだろう。そもそも、「それを知ってどうする」と言われてしまうことまでも、私たちは「なぜ」ととりあえず問いたいのである。
こうなると、「なぜ」を口にする前に、自分にとってのその「なぜ」はどういう意味なのか、しっかり考えるべきなのかもしれない。
ざっと思いつく「なぜ」の発信側の理由としては……。
・ほかに言葉が見つからなかった。
・本当に理由(原因)を知りたかった。
・責任を負わせる相手を見つけたかった。
・自分は悪くないことを確認したかった。
・正義をふりかざせるチャンスかもしれないと思った。
・自分は正義の側にいることを確認したかった。
・相手を困らせたかった。
・意地悪。
・相手を下に見据えるための儀式。
・説教したいのでその理由づくり。などなど……。
ああ、とにかく、「なぜ」と問うたとき、私たちは、実はある種の仮説を持っていて、それを確認したい気持ちもあるだろう。それも、いわば、自分が上になりたい気持ちの現われかもしれない。
「ほらね」と言いたいのかもしれない。
それらをぜんぶひっくるめると、「とりあえず安心したい」があるのだろう。「なぜ」と質問し、その返答を聞くと、内にこみあがってきた怒りやモヤモヤを解放できる可能性がある。
どうして「なぜ」を追求するか自分に問う
つまり、私はいま「なぜ」と言いたい。その場合、自分自身に対して「なぜ、いま、相手に『なぜ』と問いたいのか」を明確にしておいた方がいいのではないだろうか。
漫然と「なぜ」を問い続けるのは、時間のムダであるばかりか、一種のパワハラにもなりかねない。こっちはただ「なぜ」と言えばいいだけで、気が済むような返事を見つけるのは相手側なのだから。
相手をとっちめたいから言うのか?
原因を追求する立場にいるのか?
それを知って、どういうアクションを取るのか?
せめて、これぐらいは、意識して「なぜ」を問いたい。あるいは、もっと意地悪な場合は、「こっちも答えはわかっているんだ、そっちがなんと言うか試してみてるだけさ」的な「なぜ」だってあるので、それは度を越してはいけないと自戒したい。
テレビのニュースショーでは、コメンテーターなる人たちが、専門家に「なぜ」をやたらにぶつけてみる光景があるけれど、じゃあ、君たちはそれを知ってどうするの、と思わざるを得ない場面も多々ある。「いや、視聴者のために代わりに問いを発してるんだ」と言うかもしれないが、そもそも視聴者だって、みんながみんな、知りたいわけでもないし、知ったところでどうしていいのかもわからないんだから。
「あー、知れてよかった」と思えるときは、そんなに多くはない。ただ溜飲を下げているだけのこともあるはずだ。
自分の人生にプラスになる教訓となることは、そもそも、それほどないし。「どうしてでしょうね」「なぜなのかなあ」と思うことは、決して悪いことではなく、むしろ人間として当然なのだけれど、それを矢継ぎ早に繰り出すのは違うだろう。
人はミスをする。人は間違える。
機械はバグがある。機械も壊れる。
ある自動車会社の有名な「なぜなぜ分析」は、目的を明確にしているから有効なので、すべての事象に当てはまるわけではない。
通常、私たちは「なぜ」は1回で終わりにしておくほうがいい。
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