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279 毎日は、毎日だ

24時間の中で起きること

 きょうも早く終わらないかな、と思うとき。あるいは、いよいよきょうだ、楽しみだと思うとき。またきょうが始まっちゃうんだ。ああ、あっという間にきょうも終わっちゃうんだ。きょうはこれでいいとしよう。きょうはぜんぜんよくなかった、明日明日……。
 人によって1日に対する評価は違うのだろう。
 私は、1日が24時間では短いと感じているけれど、同時に、毎日6時間以上は眠りたいなあ、とも思っている。できれば8時間だけど、最近は滅多にそんなに長く熟睡はできない。年齢とともに、睡眠時間は短くなるらしい。年寄りは早起きだ、という声もあるが、私の父母たちは夜は10時頃まで起きていて朝は8時か9時に起きるという。寝すぎじゃない?
 もっとも、父親はかなり若い頃(といってもいまよりは、という意味だ。いま95だから)から、夜中に目が覚めてラジオを聴く習慣が出来ている。カラオケが好きなので、ラジオでいい歌番組があると録音して何度も聴くらしい。さらに耳からの聞き取りでとりあえず歌詞を起こしていた時期もあった。ノートにびっしり歌詞があるけれど「けっこう、間違えてるんだよ」と。そりゃそうだ。いまは、スマホでネット検索するとたいがいの歌詞はわかるんだよ、と教えたものの「面倒だ」と言う。なにが面倒なのか。私には理解できない。
 そういう人の24時間と、私のようにガーッと寝てしまう人間の24時間はたぶん違うんだろうな、と思う。それでも、毎日は毎日だ。

昨日と明日のことを考える

 きょうのこの日は、昨日と明日の間にある。スクランブル交差点みたいなところがあって、ドワーッと過去と未来の要素がさまざまな方向から流れてくるので、正直、忙しい。
 昨日のことやさらに古い過去のことを考えるのも「きょう」なのである。そして明日やさらに先のことを考えるのも「きょう」なのだ。この2つを外すだけで、きょうはさらに充実するのではないかと思いつつ、そうもいかないわけだ。
 たとえばソファーを粗大ゴミで出そうとすれば、予約して粗大ゴミ券を購入しなければならず、ゴミで出す「きょう」は、過去の準備によってはじめて成り立つ。
 明日、どこかへ遊びに行こうと「きょう」思っておけば、明日になったとき「そうだ遊びに行くんだ」と楽しめる。明日や未来のために、やれることはやっておいた方がいい。それが「きょう」である。
 毎日。毎日やってくる毎日は、それなりに大変である。
 そんなことを今朝、ふと、しみじみと思ってしまった。
 先日、妻の母(私から見て義母)が亡くなって、その後始末を郷里の妻の妹家族が対応してくれている。妻の父が亡くなったときに優秀な行政書士が見事にササッと相続を含めて手配してくれた。それに感激して義母はその行政書士に遺言を託す。ところが行政書士は突然亡くなってしまった。肝心なときにいない。行政書士の奥さんが別の人を紹介してくれたのだが、これがちっとも働いてくれない。遅々として進まず業を煮やして、「変えよう」と言い出した。なにをどこまで進めているのかわからないので、こちらはなんとも言えないけれど、最悪の場合は所属している行政書士会へ相談するのがいいよ、とは伝えておいた。
 なんだか不安な一夜が明けて、昨日、「明日、手続きを進めることになった」と判明。なんだか急に動きだし、大丈夫かと思ったのだが、きょう、無事に手続きは完了したらしい。
 一昨日、昨日、そしてきょう。妻の感情や不安は大きく揺れたことだろうし、義妹夫妻も大変だったろう。
 そんなことは滅多に起きない(親の死亡による相続を経験する機会はそう多くはないわけで)。とはいえ、それもまた毎日なのである。毎日の中のきょう。
 このnoteを書き上げるのにだいたい30分ぐらいだけど、これを書いたら明日のことを考えるのも日課となっている。それをTODOリストのように、日記に記している。日記といってもDropboxに入れたテキストである。1998年からずっとこの方式でやってきた。書くことはどんどん減っているけど。
 では、また明日。

黒い富士山を描きたくなった、きょう。


 
 

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