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292 学歴と頭のよさのギャップ

例のコミュニケーションに驚かない理由

 今朝、この記事を拝見しました。

 今回の都知事選はいろいろありましたが、中でもこうした話題は尾を引いています。なぜなら、2位とはいえ期待もされているからでしょう。
 実は私はあまり興味がなく、詳しい内容を知らなかったのですが、上記の記事でおおよそわかったつもりです。質問と答えが噛み合わない。しかも噛み合わないことについて、当人が譲歩することなく、むしろ攻撃的になる。
 そこの部分だけ取ると、私はぜんぜん驚きません。こういうコミュニケーションを取る人を知っていたから。家族の中に、いたからです。
 おおよそ再現してみると……。
「今夜、ごはん食べるの?」と母。「なんでいま聞くの?」と娘。「買い物へ行くから……」と母。「買い物は私、頼んでない」と娘。以下……。
 ケンカみたいになっていくわけです。娘のために申し添えると、これはいつもではない。感情が優位になっているとき、こんな会話が延々続くのです。要するに会話をしたくない。それなのになにか考えて答えなければならないことに怒りをおぼえてしまい、感情的になっていくみたい。
 例の人がこれと同じだとはいいません。娘も大学は出ているけれど、そこまでの学歴ではない。とはいえ、これまで何度も転職していて、出身大学はそれなりに役立っているらしい。
 おそらく、公的な立場になった学歴の高い人には、大きな期待が寄せられるでしょう。ところが、話をしてみると、どうも噛み合わない。こっちの言いたいことをまったく汲んでくれない。こっちがどういう意味でいまその発言したのか、想像さえしてくれない。こっちに説明しろと言ってくる。さらには説明の仕方がなっていないと言われてしまう。そのあたりから「どうなってるんだ」と思うようになる。「思ったのと違う!」と。
 最初のイメージとのギャップによって、「頭がいい人なのに」と期待したことが崩れていくその残念さ。頭がいい人なのに賢い人ではなかった……。

賢い人が求められているのに

 私が思うに「本当に賢い人」は、この世にそんなに存在しない。いることはいるでしょう。でも、そんなにはいない。本当に賢い人は、公的な場に不用意に登場したりはしない。自分にとって最適な場を選ぶことができる。賢いとはそういうことだから。
 また「知の巨人」みたいな人は、そもそも近寄りがたい。最初からその人とまともな会話のできる人は多くないはず。「こんなことを言ったらバカにされちゃうなあ」と思いながら質問するのはシンドイことです。
 私は取材をたくさんやっていた頃、いつもバカみたいな質問をしていたのですが、それは久米宏という名司会者を観察していて得た方法でした。久米宏はどう見ても頭の回転がものすごく速く、しゃべりも早口。噛まない。明瞭にしゃべる。わかりやすい。見事なのです。そこはさすがに真似できません。でも、ときどき「あえてこんなこと聞いちゃうんですけど」的な、悪ガキっぽい笑顔で相手に対して下からバカな質問をぶつけることがある。「ああ、これだな」と私は勝手に解釈し、以後、その手を何度も使いました。怒っちゃう人もいますけど、それなりに成果はありました。
 賢い人は、バカな人に教えてあげようとしてくれる。これが実にありがたい。そのまま記事になるようなことを言ってくれたりします。
 頭はいいのにバッシングされがちな人の多くは、最適ではない場に顔を出してしまったことから躓くのかもしれません。「それぐらいわかるだろう」の「それぐらい」がわからないのです。あるいは、「それは問題じゃない」と考えているのです。
 とはいえ、賢さはみんなの期待ほどではなかったとしても、頭のいい人であるなら、そこは修正してくる可能性もある。頭のよさとは、自分で修正できる人だと思うからです。いずれ賢くなるかもしれない。もちろん、ならないかもしれない。正直、私としてはどっちでもいいことです。他人の場合は。
 家族としては、賢くなって欲しいと願うばかりです。せめて他人様に迷惑をかけないで欲しいと願うばかりです。ただし、下手にこちらからそんなそぶりを見せたらまた噛みつかれるので、ちょっと遠くから静観するしかないんじゃないか、と思っています。

地味に少しずつ。



 

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