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285 おカネは人を変える

別に拝金主義じゃなくても

 7月3日、新しい1万円札、5千円札、1千円札がとうとう市中へ投入された。日銀から各金融機関へ運ばれ、多くは4日(つまり今日)あたりから窓口で両替可能になるという。
 一般的に「おカネのことばかり言うんじゃない」「カネだけの問題じゃない」といった方向のスタンスを尊ぶ傾向がある。さすがに「おカネは不浄」とまで言う人はほとんどいなくなっているとは思うけど。
 高校時代、修学旅行で鹿児島へ行ったとき、お土産屋さんがお釣りを百円札で返してくれた。その頃、すでに百円札はほとんど見かけなくなっていたのに、ここにはたくさんあった。
 Wikiによると、その百円札は1953年(昭和28年)発行開始で1974年(昭和49年)に支払い停止となったそうだ。百円白銅貨は1967年(昭和42年)に発行されていたという。
 いまだに、なぜお土産屋さんがそれだけ大量の百円札を用意していたのかわからないけど。図柄は板垣退助の肖像と裏は国会議事堂。どこといって鹿児島は関係ないよね。
 まあ、しばらくは新しいお札について話題にされることだろう。私でさえもいまPayPayで払うことが増えたので、お札はPayPayへと流れていく。現金で払うこともゼロではないけれど、ネットでの買い物はクレカやペイパル、アマゾンペイなどを通しているからおカネはタッチしない。
 おカネなんかで人生を左右されてたまるものか、と思うのは人間の常だけど、実際は大いに左右される。
 原稿料が入った日には、酒でも飲もうかとなるし、ボーナスが出れば「うなぎでも食べるか」となるだろう。せっかくいま、いつもと違うおカネが手元にあるのだから、それをいつもと違う使い方で楽しみたいと思うのも人間ならではだ。

おカネのことになると怒り出す人

 身近にいるある人は、おカネの管理ができない。なぜか、自分のおカネをちゃんと考えて使ったり貯めたりできないのである。そのため親が借金を補填したり、小遣い制にして、多額の金銭を持たせないようにしている。親が生きているうちはいいものの、その人はまだ40代なので、将来はとても心配である。
 頼まれて、おカネについてのリテラシーを高めるための話をしてあげようとしたのだが、そういうのは受付けないのだ。「あー、頭が痛い」とか「いまはやめて」とかヒステリックになってしまう。
 これは恐らくなにか症候群としてありそうな気もするけれど、どうせ治療方法はないのだろう。
 この人が特殊なのかと言えば、実は世の中にはそこまでいかないにせよ、おカネのことになると感情的になる人は存在している。私だってそうだ。入るはずのおカネが入らない、説明された金額からなぜか削られるといった理不尽なことがあれば怒る。
 それほどのトラブルではないにせよ、こっちもおカネがないことを知っていながら「貸してくれ」と頼まれたりすると、ガックリする。知り合いから「貸してくれ」と言われたら、手持ちのおカネから「あげるつもり」で貸せと言われている。だから、とても大金は貸せない。それでもあげたつもりで貸したらそのままになっている。中には律儀にちゃんと返してくれた人もいる(当たり前だけど)。「返さなくてもいいのに」と満面の笑みで受け取る。気持ちは少しよくなる。
 おカネがあると気持ちは少しいい。未来が明るく見える。おカネがないと真っ暗だ。「嘘だろ、今年の健康保険料、なんでこんなに高いんだ!」と騒いでいたのはつい先日のことである。おかしいのである。住民税は予定通りの金額だったのに。確定申告でなにかミスをしたのだろうか? 思わず資料を見返すが、どこといって間違いはない。参ったなあ。
 そんな私を見かねて妻が少し援助を申し出てくれて、「ふー、助かった」とちょっと心が軽くなる。
 渋沢栄一は銀行を手始めに数え切れないほどの企業の創設に関わった。本も出している。私は『論語と算盤』を以前に読んだことがある。おカネについての本を「論語」に絡めるあたりは、やっぱり勘定と感情の切り離せない現実をよくわかっていたからに違いない。

右側も少しずつ。


 
 

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