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60 古い機械、新しい機械

なぜか部品が消失

 10年以上使っている鼻毛シェーバー。パナソニック製。これを購入する前は小さなハサミを使っていて危険すぎた。そこで思い切って購入。以後、安全に手入れできるようになった。単三電池一本で動く。水洗いできる。定期的に刃先を洗っていた。
 つい先週のこと。使っていてあまりにも音が軽くて手応えがない。まさかと思って分解すると、肝心の刃の部品がない。そりゃダメだ。どこを探してもない。恐らく、ゴミと一緒に捨ててしまったのだ。
 この頃ときどき、そうした細部の記憶がきれいになくなっている。いわゆる老化だろう。人間はルーティンでやっていることを、ちゃんとやったのかどうか思い出せないことがある。自動化された行動は、記憶に残らないのだ。
 愛着のあった器具だったのに、残念だ。しょうがない。通販で最新の機種が千円ちょっとで売っているので、購入した。その日に届く。
 翌日、新しいシェーバーを使った。
 静か。軽い。そしてめちゃくちゃいい具合に手入れできる。
 なるほど、さすがに長く使っていたから、あの器具はすでに性能がとても低下していたのである。音もうるさかった。ちゃんと剃れていない場合もけっこうあった。
 もしかすると、あの器具「もう引退させてくれ」と自分から姿を消したのではないだろうか。

がんばれない生き方

 引き際は難しいものだ。「だって、まだやれるんだもの」と言われると、確かにやれることはやれる。だけど、いろいろと、以前とは違う。自分で思っている以上に、周囲からはそれがよく見えているはずだ。
 先日、ドラマ『セクシー田中さん』を見ていたら、医者に「四十肩ですね」と言われてショックを受ける話だった。せっかく生きがいにしていたベリーダンスも踊れない。
 もっとも、私の経験で言えば、四十肩や五十肩は案外、治る。テレビでやっていた痛む腕をバンザイのように伸ばす。痛いけど伸ばす。せめて、伸ばそうとする、という行為を毎日やっているうちに私はなんとかなった。
 酷いとシャツを着替えるのも大変なのに、ある時、ウソのように痛みは消えていた。
 この経験から「やればできる」と思ってしまったとすれば、それはやっぱり違うんだな、といまでは感じる。老化は成長の終わった20代ぐらいから始まっていると言われている。それが顕著になっていくたびに、「くそっ」と思いつつも「まだまだ」と引っ張る。
 たいがいのことは、「まだまだ」でなんとかなるのだけれど、いよいよどうにもならなくなることがある。老眼であるとか、私の場合は歯である。もはや固いものは囓れない。お笑いコンビ・錦鯉のハゲている方、まさのり氏が長年失われていた奥歯を入れたと話題になったが、私の場合はそんな大金はないし、そもそも顎の骨も厳しいらしく歯科医は「渋谷駅の大工事ぐらいになりますけど」と言った。想像もつかない。
 よく「がんばらない生き方」といった表現あって、ムリせずに自然な感じで生きていきましょう的な発想もあるけれど、こうなると「がんばれない生き方」なのである。
 まっすぐ本線を走っているつもりが、どこからか枝分かれして支線に入っている。支線は死線を連想させるが、そんな意味ではないけど、いずれ人は必ず死ぬので、まあ、そうなんだろう。
 器具は必要ならまっさらの新品に代えられる。しかし人間の体はムリだ。いまのところはムリだ。
 だから、がんばれない。がんばれなくてもいいじゃないか、と言い聞かせるしかない。
 もちろん、まったくがんばらないわけではなく、いまも少しは残っているがんばれる部分だけはがんばる。あ、しかし。これも注意深くがんばらないと、とんでもない副作用が起きかねないので、「もう自分は本線を走っていないんだからな」と少しは自覚もした方がいいのだろう。
 
 
 
 

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