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147 自分の代わりはいない、か?

人はどんどん代わっていく

 何代も続いているお店の話だけではない。歌舞伎も落語も、「何代目」と襲名しつつ、まったく違う人が同じ名を名乗る。これもよく考えれば不思議な制度である。それを知ったときには「そういうもの」として受け入れるしかなかったけれど、よくよく考えれば、襲名によってある意味でその人の人権が傷つけられているような気もしなくもない。一方、せっかく築いた「看板」を新しくするよりも、これまでのままに引き継いだ方が客のウケはいいのかもしれない。アイデンティティーより看板が大事、それは自分という個人よりも過去から連なる歴史が大事だと言っているように感じて、少なからず抵抗を感じてしまう。
 こうした襲名方式は、いまの時代にはごく一部に過ぎないけれど、これを「いい」と感じる文化が根本にはある。同時に、これは「自分の代わりは存在する」ことを肯定している。もの凄い人気を得た役者や芸人が引退したあと、同じ名をつけた別の人が登場する。代わりを育てること、あるいは発見することが可能なのだ。
 一方で、政治家のような不安定な存在が安定を求めて死に物狂いで「自分の代わりはいない」と主張している醜さもある。世襲を続けているくせに、代わりはいないのだ、と言ってしまう傲慢さはどこから来るのだろう。とっとと代わればいいだけの話ではないか? 必要なら誰かに襲名させればいいではないか。
 二代目田中角栄とか三代目伊藤博文とかがいる政治ってどうだろう。変わっているようで、なにも変わっていないことを装えることにどんな意味があるのかわからないけど。

ドラマ『お別れホスピタル』、ドラマ『闇バイト家族』

 いま見続けているドラマはいくつかあるけれど、ドラマ『お別れホスピタル』、ドラマ『闇バイト家族』について少し触れたい。
 『お別れホスピタル』は漫画原作。『闇バイト家族』はオリジナル脚本。
 『お別れホスピタル』は犯罪とはほとんど関係ないけれど、どんどん人が死んで行く。ベテラン俳優陣を惜しげもなく使っているのはNHKらしいけれど。そのおかげで、いろいろな意味で切ない。さまざまな人のさまざまな最期が描かれると同時に、それを見守る医療現場の人たちの群像も描かれている。不思議と暗さはない。それはこの病院のロケーションのおかげでもある。外に出ると青空、海といった素晴らしい場所で、まあ、それは「天国に一番近い病院」な感じなのだろうけれど。
 誰もが死ぬ。幸せな死も不幸な死もそこにはない。ただ死がある。これまで人類の誰ひとり、逃れた者のない死。
 その人がこれまでの人生でなにを成し遂げたにせよ、死はひとつの死だ。こうして世の中から消えて行く。事故や災害や事件ではなく、病床で迎えることができれば、少しはマシなのだろうか。
 最初はそう思って見ていたのだけれど、見ているうちに、そうでもないことがわかってくる。
 『闇バイト家族』はコメディである。それも、気軽に見たにしては、なかなかぶっ飛んだコメディであった。ここではいまのところ死体は出ていない(4話まで見ただけだけど)。タイトルに「家族」とあるが、疑似家族である。お互いに背景はよく知らないまま、家族をやらされている。とはいえ、筒井康隆ほどのぶっ飛びではないので、むしろ大人しすぎる気さえするが、それがいわゆるコンプライアンスというものかもしれない。オリジナル脚本だからといって、のびのびやれるわけではないのだ。
 この疑似家族は、「代わりはいくらでもいる」存在で、いわば使い捨てのなりそこない犯罪集団である。それなのに、当人たちは時にのほほんとし、まるで自覚が足りないのである。
 だけど、もしかすると、私たちの多くは、まさにそういう状態にいるのではないだろうか。別に犯罪に加担することはないけれど、そこを除けば、「家族といえば家族だけど」的な家族の中にいて、「幸せといえば幸せな」世界をそれぞれに目指している。代わりはいくらでもいるけれど、代わりのいない存在になりたいというか、自分が自分として生きていることは誰かに認めてもらいたい。「はいはい、生きているね、じゃ、次行こうか」と吹越満に言われてしまうような、そういう意味での代わりのいない存在に過ぎないかもしれない。
 どのように自分を自覚するかに、かかっている部分が大きいのかもしれない、と思ったりするのである。

しばらくは要素に分解して練習しよう

 夢に見た光景を絵に描くために、要素を分解して練習することにした。
 まずは雲。雲がある程度描けたら、次は遙か下に見える池。さらに付近の草木へとそれぞれ練習してみるしかないな、と考えたのである。
 幸い、検索するとYouTubeなどで丁寧に教えてくれる先生たちが大勢いる。すごい時代になったとは思う。学びたければ、そこに先生がいるのだ。それも、こっちはパジャマで寝ぼけていてもいいし、カップ麺をすすりながらでもいいのだから。
 いつか、夢に見た光景を描くことができればいいよね。完全に自己満足の世界だけど。
 そんなことを言ったら、世の中の営みの多くは自己満足だから。
 というわけで、とりあえずメディバンで雲を描いてみた。

雲海

 なんだかよくわからないけど、いずれ、もう少し上手になるかもしれないし、ならないかもしれない。それは、いまの自分にとってはどうでもいいことなのである。


 
 
 
 

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