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人生成り行き


単行本編集の話を続ける前に、談志師匠について書いておこう。

文筆修業の直接の師ではないけれど、わたしの人生でもっとも大切な人のひとり。

伊丹さんのことを書いて談志師匠のことを書かないと向こうですねてしまいそうだし。


4歳のときに日劇で林家三平さんを観て以来、わたしは演芸と相当近しく育った。

日曜日の昼間は「大正テレビ寄席」を見て「がっちり買いまショウ」を見てから「末広演芸会」。

お盆とお正月には日比谷の東宝名人会に連れていってもらい、前のほうで「あはは」と笑っては「お嬢ちゃん、わかるのかい」と老落語家にいじられていた。


長じて大学3年の終わり。

一つ上の先輩がまだ落語を生で聴いたことがないというので、紀伊國屋名人会に案内した。

そのときの主任(とり)が立川談志師匠だったのだ。

演目は「黄金餅」。


長屋で吝嗇な男が病みつき、溜め込んだ一分銀を餅にくるんですべて丸呑みにして死んでしまう。

隣の部屋からそれを見ていた男が、自ら仏を焼き場に運んで「生焼けに」と注文し、遺骸から銀を拾って自分のものにする、さらにはその金で餅屋を開いて繁盛する、でおしまい。


わたしと先輩はいちばん前の席のそれも真ん中で聴いていた。

談志師匠の演技は鬼気迫り、わたしはのけぞり、椅子に背中が吸い付いた。

男に罰は当たらなかったが、わたしが談志師匠に当てられてしまったのだ。


考えられるのはもうファンレターを書くことだけ。

ともだちと春休みの京都旅行にいく朝に投函していった。

二泊三日で帰ってきた夜、マンションのポストには、師匠からのお返事が届いていた。

「今月の下席は末廣亭に出てるから、よかったらいらっしゃい」


お返事を直訴状のように掲げて末廣亭の楽屋に通してもらった。

師匠は漫談で上がられる日で、タキシードのドレスシャツに白いズボンであぐらをかいていた。

「よくきたね」

なにをお話ししたのか、よく覚えていない。

とにかくその日から師匠のおっかけになった。


落語会という落語会、寄席という寄席、学園祭という学園祭。

すべて通った。

お誕生日に「風」こと手拭いを贈ると、わたしがいきますといった落語会で使ってくださった。

幕が降りる間際、顔を傾けてわたしに向かってぺろっと舌を出されたときも。


「東京女子大の文化祭にいらしてください、実行委員会からは予算10万円といわれました」

そんなとんでもないお願いをしたら「学生はみんな金がないないいいやがる」といいながらきてくださった。

30分遅刻に気を揉んだけれど、噺は「鼠穴」をたっぷりと50分も。


大学を出てから落語情報誌『東京かわら版』で職人さんインタビューの連載をさせていただいたのだが、そこで知り合った女性プロデューサーが談志師匠の女性ファンクラブを結成した。

わたしも入れてもらい、談志師匠に張り付く係になった。

ファンクラブで師匠の家に遊びにいく日、師匠が忘れてどこかへ誘われていってしまわないようにずっと張り付いているのだ。


役得で他のメンバーより先に師匠の家に着き、いっしょにお料理もした。

わたしに大量の玉ねぎを刻ませている横で、師匠本人はハムを分厚く切ってサンドイッチを作る。

「玉ねぎ切ってるお前の腹が減るからな」といって。

できあがると、横からわたしに食べさせてくれた。

恋人にもしてもらったことないよね、あんなこと。


わたしが仕事でなにかできて報告すると師匠はいつも「えらいな、えらかったな」とおっしゃる。

結婚してこどもができて、2000年に育児の本を書いたとき、師匠にお送りすると、すぐにハガキをくださった。

「幸福の様子何よりであります」

熊本のホテルの絵葉書で、師匠の言葉の入った千社札が貼ってある。

「人生成り行き」

これからもですね、師匠。




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