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小さな社会実験という現場感の手触りが愛おしい。

遊びの本姓を考えるのは非常に面白い。子供たちの発達段階に沿っていわゆる足場づくりやサポートをするのは成長と育成を支える立場であれば自明のことであるけれど。ここで述べたいのは遊びが意図せずとも社会の道具になっている、即ち自律共生するための模擬になっている点だ。

ゲームでいうならば、確かにどうぶつの森では生活や他者とのやりとりを一から作ってみることができるしマインクラフトは土地というゼロベースに建築や物を構築することが出来る。ある一定の基準やルールに沿って。

僕が言っているここでの遊びとは、おもちゃや共同幻想を用いて行う自発的な活動そのものを指す。身体を空間と時間の中で行う遊びをみんなで共有できるというゴールを目指す過程が非常に興味深い。例えば、同学年の数人がトランプで何か遊びをしているとしてそこに上級生と下級生が混じってきたとしよう。先ほどと同じようにゲームを実行すればもしかしたら誤差が生まれるかもしれない。上級生が知っているのはそのゲームルールにプラスアルファなルールの付加可能性、あるいは下級生は簡単なことしか分からないもしくはやり方すら分からないと。そうなると彼らは自ずと考えなければならないわけだ。ゲームそのものを変えるか、誰かが補助するか、大人の助けを用いるか。(現場で支援員は様子を伺って中に入ったりアプローチしたり、ファシリテートしたり。)

ゲームや遊びが同じでも行う人によって方法と目的が変わっていく。もしそのゲームをみんなでやりたいならルールや基準を変える必要があるかもしれない。できない人を排除するのもまた一つの手、違う遊びに変えるのも一つ。しかしもし彼らが誰一人として欠けることなく同じゲームを実行するなら話し合う必要があって。自発的にコミュニケーションをとって共同可能な着地点を模索する。この行為こそ課題の発見、アイデアとアプローチそしてフィードバックなのです。

遊びを通して実は自律共生な社会を作っている。子供たちは創造の賜物。

故に非常に面白いと僕は思うのです。Do you?


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