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散歩しながらなんで日本に住んでるんだっけを考える.
海外で学生時代を過ごしていた友人が「思い出したんですよね. そういえば僕は日本が好きじゃないって.」と言ったのを横浜を歩きながら思い出していた.
彼にも様々な側面が入り混じっているのだろうというのは前提で, そういえば僕は「日本に住みたい.」と思うのはなんでだっけと思い出す, 5月.
最近専ら“City pop”のコンテクストに触れているのだけれど, それがどうもこの国に対する僕という1人の人間としての視点と重なっているらしいと気がついたのは今日歩いている時だ.
田舎で過ごすと車社会であるから, 都会, 市内へ行く道というのは”都市空間“の広がりを常に前方から感じて生きてきた. そしてそこに向かうときに耳にする音楽. つまり空間に漂う光と音が時間と共に流れて伸びる構造の中で享受してきた.
ここで1番最初の話に戻る.
結論からいうと, 僕は“都会”とやらが好きではない. 仮面を被る遊びを続けられるほど自分を偽れないからだろう. 人が多いと感受性を使いすぎてしまうから妙な緊張感もときにはある. 人に疲れるというより, その人々が持つエネルギーに疲れてしまうし辟易している. 一方で都会という空間を眺めるのは好きだ. それが先ほどの話にリンクしている.
かつて別の惑星を眺めるような自分で車窓から眺めた景色を今, 僕はLuupに乗って駆け抜けてる. それは後々になってバイクや車になるのだろうけれど. あの瞬間最大風速な感情はCity pop的だと思う.
City に集うのは嫌いだ.
取り繕う欺瞞, 自分を騙せることに他人に無関心でいられるエンタメで生きれる日本という側面が嫌いだ.
でも日本が好きだ. 茶が, 檜が, 味噌が, 鯵が, 四季が米が, 畳が温泉が好きだ. まだまだある. 物質をプレスされる過程で感じる哀愁感を愛してる.
嫌いな空間があれど愛してる生命がある.
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