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帰り道に考える, タブララサ.
安全な環境下で自由にできるが故の影響について. ずっと前に整理したような気がするのだけど, 最近またもやもやしてき始めたので改めて書いていこうと思う. つまるところ, 自由と閃きの話.
無垢なままでいられるのは幸いであるけれど, 知恵がなければ使い古され搾り取られてしまう. それは例えば雇用の話に言えるわけで..自由になんでもできるとは, ダイアモンドの原石が外的要因によって磨かれる可能性はあるけれど絶対とは言えない. とはいえ, 独自のやり方で原石を磨くにも限界がある.
遊牧には安全な環境があれば, 自由さを安心して扱える余裕があるけれどその余白は過ちの方向をノンストップに行くかもしれないし.
自由さを心地よいと主観だけでなく客観的に好ましいと感じられる着地点は, なんでもありという名の“我が儘”にはない. 一緒に演奏する仲間をすっぽかしてリズムを乱し曲調を乱したことで「これは遊びであり自由であるから良いのだ.」とは言い切れない. あるいは, 鬼ごっこをしていて鬼が異なる事を始めたら遊びが成立しない.
自由と責任はよくセットで語られるけれど, あれってもっというと律法のことだ. 責任さえ果たせれば, 自由になんでもありかといえばそうではない. 必ず, 律法というゲーム設定が伴う.
ある程度の制限は, 創造性を掻き立てる.
閃きは自由と制限の適度なバランスが必要だけれど.
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