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経験を経験する.

体験価値という体系が漂っては消えていく. 体験価値という名の背後に隠れている自己責任論には注意してみておきたいけれど, 今日はふとそんな体験価値というよりも経験を経験することについて書いておきたい. 

打席に立てるまでの仕組みって見逃されがちな気がしている. この2年の間にどれだけ回復できるか?再構築できるか?が僕の中ではトレンドだったのだけれど(それはつまるところ, 身体と心の距離レジリエンス) まだまだ追いついていないのが現状だ. 

社会を見渡しても, 例えば学生時代が自粛終わってしまった監獄から青春にdiveし損ねた子たちが今再び取り戻してる姿あったり, どうしていいかわからなかったりしていまだに問題にならないことが問題だなって思っている.

経験を積むというのは一種の経験を通して脳と身体の計算機にデータを収集するという, 人生で喜びを自分で味わえるようになるための大事な, 「生きること」そのものなのだと僕は思っている.

自分で自分の経験を決められるという利己的な主張の気持ち悪さには, 無知の知と未規定なものや不条理を無菌殺菌する過度な潔癖症さが見えて, さらにその背後には不安や恐れが根付いているという3段構えがあってなかなかに味わい深い.  

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