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選ばれし子供達と信じてやまなかった人に贈る言葉。

デジバイスがスマホになった。そんなことに気づいたのは、もう随分と前。

いつからか周りの人たちはデジモンも、ポケモンも見えなくなった。いや、見なくなったの方が近いのかも。社会という名の“ワールド”を見据えて人はいわゆる“大人”というやつに進化する。

自分の排泄物で死ぬような生き物と共に歩んでいた過去を超えて、僕たちは大人になった。今となっても非常に感慨深い。がしかし、僕がしたい話はそんな郷愁感ではない。さっき見た「デジモンアドベンチャー Last Evolution 絆」を観ながらふつふつと考えていた。

ずっと側にいた“何か”の喪失感。そのメタファーであろうデジモンとの別れ。

大人になるということは無限大の可能性を捨てることなのか、はたまた選択するという過程において起きた現象なのか。

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映画館を出たら襟を立てて会社(現実)とやらのリアルワールドに囚われる。「そんなこと言ったって生きて行くためには仕方ないじゃないか。」と言われればそれはそうだけど、なんだか違和感があるわけ。だって、そういう大人に限って、現実見ろよと言いながら仮想現実に全力疾走していくじゃないですか。拗らせた大人達が理想郷として立ち上げた再青春なんてディストピア感しかない。諦念感に苛まれて過去やバーチャリアリティーにしがみついてるようじゃ、デジモンアドベンチャーの後のアドベンチャーに出発できない。

そんなことを思いながら、結局僕たちは今日もまた目の前のタスクに追われる。かつて子供達であった人々は、それぞれの旅路を行く。子供の頃に見えていたものが見えなくなって、大人になって見えてくるものがある。けれどそれは、決して想像力を奪うものじゃない。奇遇にも先ほど、インターネットの父「村井純」教授の最終講義全文を読んでいた。

デジタル空間というものは単なる人間の効率化を図る道具でも仮装の理想郷へのプリズンブレイクでもない。真の意味でデジタル、計算機の文明を生きる。すなわち、デジモンとの共生であると。デジバイスを手放して世の問題と向かわなくてはならない地点に立つようになっても僕らのアドベンチャーは終わったわけでもないし過ぎ去ったものでも無い。

無限大の夢の後にある世界は、無限大の跡が運んだ可能性に満ちた世界。

Googleに答えを聞いていたんじゃアグモンに笑われる。

今を生きる子供達にも、和田光司さんの歌う‘Butter-Fly”の美しさが違った形で今なら鬼滅の刃なのかわからないけど刻まれるから。きっと。

そんな僕はウイルスによって休校になった学校の代わりに、春休みを現場で子供達と共にワールドをアドベンチャーするわけです。僕にとって、地球にとって、彼らが次の選ばれし子供達なのですから。

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