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それでも失われていく記憶の中で心に人を住まう下心で生きる。

もしそれを下心と呼んで良いのなら僕は常に下心を持って生きている。。。。


人の裏表の顔。人はコミュニティや対面する相手によって無意識に複数の顔に分けているという。

小説家の平野啓一郎さんはそれ“分人”と呼んでいる。

元々は哲学者のドル・ドゥルーズによって概念が提唱されたそうだが。いわゆる人は複数の顔を持って生きていてそこに一貫性がないと苦悩するらしい。

今日エレベーター前で、とある人と会話したのだがこの現状について少し考えた。世間一般的にいう下心と僕が思う下心の差異だ。

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他の人に好意を持ってもらえるのが嬉しいのは分かるのだけど、エロス的な要素には全く共感できない。好意で人に話しかける時に奥底に眠っている願いは常に目の前の人を忘れたくない、なのだ。自分で言うのも失敬ではあるが人の顔と名前を覚えるのが大変苦手だ。昔はよく落ち込んでた。

だからこの人を、自分の心の内に住んで貰いたいなという願いが根底に流れてる。忘れちゃうから。

もしそれを下心と呼ぶのなら、それでいい。

自分だけではない人の存在を確認して肯定する。それが嬉しい。僕の下心だ。明日僕は誰かを忘れてしまう。今日話した人を想おう。生きているなって確信しよう。生命が目の前に在るのだ。



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