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言語化できない人々

これはすごいなぁと思ったのでシェア。

漫画では、何かの映画を観た主人公が、その感想について書かれたツイートを検索しているところから始まります。
彼はなぜそんなことをしているのかというと、

「(自分が観た)映画の感想を言語化するのが面倒」だから。

適当に自分の感想に近そうなツイートを見つけて、それに「いいね」ボタンを押すことで、「自分がその映画を観てどう思ったのかすら考えずに済む」という内容でした。

映画を観たからには何か心を揺さぶられることがあったのだろうと推測されます。
しかし、それを深く追及して言語化するのは面倒。だから、感性の近い人のツイートを見て、さも自分の言語にしたような気分を味わう。

タイトルは「思考のアウトソーシング」
締めの言葉は、「愚かでいるのは一種の快楽だ」

そもそも、人間の技術革新とか文化の発達というのは、「自分で何も考えなくていいようにするため」に進んできたはず。
何も考えなくていいように、AIが「あなたへのおススメはこちら」と商品を選んでくれるし、食べたものの感想は食べログを見ればいい。
かつて、人間が望んだ時代がまさに来ているということ。
嘆くようなことではない、はずなのに、どうしようもない不安を感じます。

自分でいちいち考えて言語化し、わざわざ発信までしている人というのはごく限られた人の仕事になっているようです。

ちなみに私はツイッター廃人だったのですが、「いいね」ボタンはかつて「favorite」(あの頃は「ふぁぼ」と呼ばれてました)でしたよね。
少なくとも誰かの発言に対して「好き!」と同意をするためのボタンだったのに、ある日を境に「いいね」になりました。

「好き」の場合は自分から熱烈な矢印が向かっている印象ですが、
「いいね」の場合、かなり上から目線で「よきにはからえ」と言っている印象を受けて、「これっていよいよ何も言語化できなくなるのでは」と思った記憶があります。

最近、私の界隈の話をすると、二次創作界隈では「感想がもらえない」といって嘆いている人が多いのですが、これも同じところに端を発しているのかもしれません。

感想を送る――以前に、自分が何を感じたのか言語化できない人が多い。だからこそ、交流が途絶えてしまう。

二次作家さんの中には「頑張って書いたのに、イイねボタンはたくさん押してもらえるけど、感想はひとつも来ない」といって筆を折る人がいるのです。

絵なり文章なりを書いている人は、何らかの道具で自己表現をしている人ですが、それ以外の人たちは「言語化する」ことを放棄した人ばかり。そりゃぁ交流はできないよなぁ…と。

誰かが書いた感想の方に「イイね」が多くついて、原作者がへこむ、なんてことも起きているかもしれませんね。

感想でもなんでも、アウトプットする訓練をしていかないと、本当に誰とも交流できない未来が来るのかもしれません。
いや、そもそも「交流するのも面倒くさい」という未来になるのかもしれませんけど…。

※補足。続きがあった。すごいなあ、この方。


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