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「相手のことも考えているときが一番上手くサッカーできる」プロサッカー選手への道のりで築いた自身のあり方

Text by 前田彩花

Photo by 丸山栞奈


人との出会いはおもしろい。


少し昔、友人の兄がテレビに出たと聞いて「どんな人なんだろう」と、なんとなく気になっていた。

いまになってそのことを思い出して、友人にLINEする。

「お兄ちゃん、何やってる人だっけ?」

「丸山龍也で検索したら出てくるよ!」

即座に検索をかける。

メインキャストのオードリー若林正恭が、「いい人生」「マルちゃんのファンになった」と絶賛した。ーWikipedia『丸山龍也』

と出てきた。

話を聞けるものなら聞きに行きたい!!

友人にお願いすると、ありがたいことに時間を作っていただけることになった。

私が記事を書き始めていなかったら、友人の兄じゃなかったら、直接会って話を聞きに行くなんて出来事は起きなかったと思う。


サッカー大好き少年


元プロサッカー選手である、丸山龍也さん。現在26歳の丸山さんは、スポーツマンガ専門の出版社で社長をする傍ら、海外に挑戦する若いサッカー選手のサポートをしている。

Twitter『丸山龍也@マンガで世界制覇&プロなろの子を全員プロにする』より


まずは、私自身が気になっていた丸山さんのブログ記事『ゆとり世代フットボーラー』について、なぜあんな風に笑えてグッとくる文が書けるのかを聞いた。

(保育園)年中さん、年長さんの時から読み物を読まされてて。お母さんと誕生日プレゼントを選びに行っても、この本おもしろそうだよって本に誘導されて。そういう(本を読む)子にしたかったんでしょうね。お父さんも本をよく読むんですよ。ベットの周りに汚ったない本がズラーって。地震にあったブックオフみたいな(笑)」


家に届く新聞にも、欠かさず目を通していたと言う。

「最大4社の新聞が届いてたんですよ。小学生新聞と普通の新聞、スポーツ新聞、あとは週に3回出てるサッカーの新聞。全部それなりに読んでたと思う。政治面とかは読んでないけど、芸能とか地域とか読んで。スポーツ面に凄く興味がありましたね」



丸山さんがサッカーに興味を持ったのは幼稚園年長のとき。当時、月刊コロコロコミックに掲載された、『川口能活物語』を読んだことがきっかけだった。

それから小学校に上がり、仲の良かった友人がサッカーを始めたのを見て、丸山さんもサッカーを習い始める。


そして2000年シドニーオリンピック。丸山さんが小学2年生のときだった。

「(サッカー選手の)中田英寿が、PK外して負けちゃうっていう試合があって。泣いちゃったときがあるのよ。その試合がすごい悔しくて、うう〜ってなって。俺が日本代表になってリベンジするんだ!って思った

丸山さんはこの頃から、プロサッカー選手を目指すようになる。


中学時代に『FC COJB』のジュニアユースチームに入団。ここでは10代から30代の幅広い年代の選手が集い、練習を行っていた。中学を卒業してからは、午前中に『FC COJB』で練習、午後から定時制の高校へ通うという生活を送るようになる。

『FC COJB』での写真。一番左に写っているのが丸山さん


そして高校3年生で通学時間が自由な通信制へ編入。親には相談をしなかった。

その後、アルバイトで稼いだお金を使い、国内外の様々なチームで入団テストを受け、プロ契約を目指す。

トライアウトを受けに、ベトナムへ


そんな中、兵庫で行われたセレクションで声をかけられる。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)への加盟を目指していたアンソメット岩手・八幡平』と契約し、岩手を中心に活動を開始した。

『アンソメット岩手・八幡平』での試合風景


人間ってそんなに頑張れない


19歳の冬、左膝前十字靱帯断裂、左膝内側靱帯断裂


岩手でのシーズンが終わり、『FC COJB』と大和市の高校が行った練習試合のときだった。全治8ヶ月。2度の手術をし、ここから長いリハビリ生活が始まる。

”毎日練習して午後は日雇いのバイトをいくつも兼任し・・・という生活でした。この頃、親と口を聞ける状態ではありませんでした。なので、自分でどうにかお金を用意しようと相当無理していたと思います。”                                                    ゆとり世代フットボーラー丸山龍也 オフィシャルブログ『プロフィール』


「朝の9時から、夜の19時まで電気屋さんで働いてて。お疲れ様でした!って言って速攻、原チャリでブイーンって行って、19時半から家の近くのピザ屋で深夜1時まで働いて。週に2回は(電器屋かピザ屋の)どっちかしかない日があって、その間にリハビリ行ったり、サッカーの練習行ったり、試合観に行ったりとか」


リハビリを経て復帰し、9ヶ月振りに試合に出場。

しかし、試合開始後間もなく救急車に運ばれる。

2度目の前十字靭帯断裂だった。


「家でお母さんと話してるときに、『龍くん、サッカー頑張るのもいいけど、普通に一人暮らしとかして、働くのもアリだからね』って。うちのお母さん悪いこと全然言わないんで。別に怒ってたわけじゃないし。でも、当時の俺はちょっと嫌で。俺こんなに頑張ってるのに、仕事しろとか言うの?みたいな。切れちゃったんですよ、プツって。心の糸が切れちゃって。なんかもうやだって思って」


1度目の靱帯断裂で2回手術をしてから、再びの手術。一から始まるリハビリ生活。サッカーがしたいのにできない状況が苦しかった。


サッカーしたいって言ってるのにも関わらず、2年ぐらいできない。それはヘコんでもおかしくなかったなーって思いますけど。(バイト先の)電器屋に行く途中、原チャリで通ってたんですね。で、電器屋からピザ屋に行くとき夜じゃないですか。そうすると人通りも無くて。赤信号無視して、減速せずにビューンって。これで死んでもそれはそれ!って感じで。そのぐらい考えることが色々あって。ヘラヘラできちゃったりもするから、周りの人から思い詰めてるとも思われないし。本当は心の中に色々あっても、葛藤してても、なんか伝わらなかったり」


サッカーの活動費を稼ぐために、働かなければいけない。でも、頑張って働けば働くほど、サッカーに費やす時間が減る。そんな矛盾に悩み続けた。


「サッカー上手くなることが、一番サッカー選手に必要なのに。本当にサッカーのことが好きだったら、バイトなんかよりサッカーやるんじゃないかなって。でも、人間ってそんなに本当は頑張れない。バイトも、サッカーも、リラックスする時間もって全部やるのは難しいから、それは悩んじゃうかなーって」


”自分はプロのサッカー選手になるために努力をしている”と心から言えるのか。サッカーのことはもう、考えたくなかった。

親、友人、バイト先やサッカー関係の人。当時やりとりしていた全ての連絡を断ち、丸山さんは鹿児島にある親戚の家へ向かう。


人に助けられて


全ての連絡をシカトしてたんですよ。そしたら妹の方に、『お兄ちゃんどうしてる?』ってくるようになって。妹から、『みんな心配してるけど、どうなってるの?』って連絡がきて、テキトーに返しといてーって。桜島があって、夕日が沈んでいくのを見てると泣けてきちゃうんだよね。綺麗なの、まず。自分がここにいるのも意味分かんないじゃん。しんどいなって思って妹に連絡すると、頑張ってーとか返してくれるから、良かったなって」


4ヶ月間の鹿児島生活を終えて、丸山さんは実家へ戻る。連絡を無視していたにも関わらず、友人たちは温かかった。


「お世話になってるコーチから、”お前がそれなりに頑張るっていうのでいいんじゃない?他人は置いておいて、自分が、好きだなっていう気持ちでサッカーしたらいいんじゃない?”って言われて。鹿児島に行ったときのテンションでサッカー続けてたら、サッカー辞めちゃってたかもしれない。当時のコーチとか、メンタルトレーナーとか、そういう人たちが言ってることが、そのときしっくりきた。だからそういう人たちに会えたりとか、いろんな人が色々言ってくれるっていうのは、はーありがてぇって感じ(笑)いまみたいにサッカーの仕事できてたりとか、こうやってお話聞きに来てくれるとか、きっとなかったと思う。あのまま突っぱねてたらね。」

お世話になったコーチと、その教え子たち


21歳、怪我による2年のブランクから復帰。プロを目指して活動を再開する。


力の抜き方


昔は朝10時からの練習でも6時に起きて。6時から10時まで、スポ根映画みたいにドロドロになるまで走って。練習が終わってからも、ボール蹴って。クタクタにならなきゃいけないって思ってたけど、それって本当に続かないのよ」


”今日もできなかった” ”俺は本当にだめだ”と思う日々。そんな丸山さんの生活が一変する出会いがあった。

本田圭佑のマネージャーをやってた人と、たまたま知り合って。大らかで、男気があって、相談に乗ってもらったりしてて。本田圭佑のマネージャーだからこの人に話しかけるとかは、ちょっと嫌だったんですよ。本田とか関係なしに好きなんで。でも、一個だけ知りたいことがあって。本田は1日24時間を、どういう風に過ごしているんだと。気になって聞いたら、”圭佑は、1日2時間の練習のために、残りの22時間を過ごしてる。でもそれはずっと練習しているわけじゃなくて、友だちとお茶をしたり、奥さんとリラックスしたり。あいつは、心も体もマックスの状態で練習に望むために、そうしてるんだよ”って。目から鱗だった。そういうので良いんだって」


丸山さんは、家でできるライターの仕事や、イベントに人を集める仕事など、サッカーの練習に支障が出ないように働き方を変えた。


練習が終わったら昼寝して、映画観て、友だちとも遊びに行ってっていう感じで半年ぐらい頑張ってて。気を抜くとかリラックスするとか、多分そういうことが大事で。サッカーの試合も観るの好きなんだけど、試合ばっか観てないで練習しなきゃって、昔は思ったりもしてたわけよ。でも、試合とか観て、いまのサッカーってどういう風なのかなってなんとなく分かっておくのも大事だなーって。この、”なんとなく”っていうのが大事なんじゃない?いつか活きるしって感じで思ったりとか


思い詰めることもなくなり、改めてサッカーが好きだと思えた。


そして2014年、当時22歳。日本からスリランカへ送ったビデオが、監督の目に止まる。トントン拍子でプロ契約の話が進み、丸山さんはスリランカで長年の夢を叶えた。


スリランカでの試合風景


イイ感じの自分って、どんな自分?


22歳のときに、フェイスブックに懐かしい名前が出てきた。小学1年生の担任の、ニシオ先生だった。

「おお!ニシオ先生だ!って思って。覚えてますか?って言ったら、”覚えてますよ。生活科の授業で雨が降ってきたときのことが懐かしいです”って。(思い出せなくて)何があったんですか?って」

小学1年生の生活科で、外に出て街探検をする授業があった。その途中で大雨が降り、雷が鳴り始めた。危険を感じた丸山さんは、屋根のあるところへみんなを避難させたという。


龍也さんは、周りの友だちのことを考えられる子なんですよーっていうのを(ニシオ先生から)聞いて。好きだったんだろうね、そういうのが。忘れちゃってたなって思う。俺がプロになる、俺が海外に行くって、自分自分ってなってた。相手選手に対して、こいつもっとこういう風にやったら上手くなるのになーとか、あいつ凄い上手いなーとか、相手のことも考えてるときが一番上手くサッカーできるんですよ



「僕はいま、サッカーの漫画と、若いサッカー選手の面倒を見るのと、大きく分けて2つの事業をやっていて。営業マンは、ものを売るのが仕事だって言う人も世の中にはいる。でも僕は、最後にみんなが気持ちのいいようにしようって思ってるんです。そうやってると利用されちゃうときもあって辛いんですけど、でもなんでそうしてるかっていうと、サッカーをやってたときの経験があるから。自分自分ってならない方が、僕にとってはきっと良いんです


いまそう言えるのは、側で言葉をかけ続けてくれた人たちのお陰だと、丸山さんは話す。

こう(視野が狭く)なってたときのプレー、お前微妙だぞって、ずーっとしつこく言ってくれたコーチとかがいたから。冷静になって、リラックスしてるときの方が良いって。苦しい言葉ばっかり好きだったんだよね。”死ぬ気で”とか、”背水の陣”とか。あんまりそういう風になり過ぎてもだめだなーって。こういう風にやってたときは大体あんな風になって、っていうデータが蓄積されてるから。なるべく良かったときの自分でいたいなって思う。人生の中で、調子いいときの自分がいるはずなのよ。そういうとき、どんなこと考えてたかなーって思ってみたらいいんじゃない?」



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