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『2人』の自分

人間というのは、一貫性を持ちにくい生き物だと思っています。恐らく一貫性があれば接する人たちは楽だと思いますし当人も生きやすいと思います。しかし、少なくとも私には自分の中に「2人」の自分がいて、学級経営においてこの「2人」の自分をどのように扱うかが鍵となってきているように感じています。

昨年の夏、私が尊敬していた初任者担当の先生が校長先生にこのような話をされていたようです。飲み会の席で校長先生からお聞きしました。

「2人を一言で表すと○○先生(同期)は努力。梵先生は魅力、だそうですよ。」

もちろん、私が努力してない訳ではありませんしそこも校長先生や指導教諭の先生もご存知でした。それにしても魅力って何だろう…。

「梵先生がお話をすると、不思議と子どもたちはひきつけられます。カリスマ性があるのですよ。」

違う、と思いました。私はカリスマ性なんかと程遠い人間だからです。早く帰ることばかり考えてゴソゴソ仕事をし、微妙な授業をやって罪の意識に苛まれる毎日。それは見誤っている、と感じたのです。
何なら専攻は特別支援教育です。支援学校の教員志望だった人間です。カリスマ性で人をまとめる、だとかそんな次元の話ではありません。アセスメントと観察を諦めずに続け、寄り添い続けることをモットーに4年間学んできた人間です。違うよ絶対…。

そんなある時、私は精神的にしんどいことがあって酷い状態で学校へ出勤したことがあります。その時、指導教諭の先生は私にこのように仰いました。

「梵先生のポジティブで太陽のようなオーラが弱まっていますよ。どうかされたのですか。」

先程も申し上げましたがポジティブじゃあないし太陽よりも月のほうが良いタイプの人間です。何を言ってるの…と感じましたが、最近ようやくこの意味がわかってきたのでした。指導教諭の先生は私より私を見抜いておられました。

かっこいい言葉を使わせてもらいます。
自分の中に「教皇」と「皇帝」がいるのです。「教皇」は子どもに寄り添い共感して諭す自分。「皇帝」はその名の通り学級を統治する自分。
デフォルトは「教皇だ!!」と思っておりました。しかし、より自然に使える「自分」は「皇帝」の方でした。

朝の会の自分を観察した時。座っていた児童たちをぐるっと一望し、まるで城下から民に声をかけるかのようなイメージでモノを言う自分に気づいたのです。低い声で朗々と語るわけですが、教え諭すよりも演説で感化させる、そのような風体でした。
何も演技しているつもりはありません。もしかしてこれか…???と少しわかった気がします。でも俯瞰した時に偉そうに見えたら嫌だなぁとかコレを自覚してしまったが故に自己がもつ権威とか権力(?)を利用するような自分になったら嫌だなぁとか色んなことを考えました。職権濫用が怖い職業でもあるので余計気を付けたいところです。

では「教皇」の自分、とは。指導をする時、児童に教え諭す自分です。あくまで共感的に相手が心を開く言葉を探してそっと手を差し伸べるイメージです。そして、猛獣をゆっくりと落ち着ける感じ。ここでの私は不思議と教員対児童、ではなく立場という枠を溶かして二人の人間同士で話す感じでした。相手の立場に立って考える。修道女が悔い改めた罪人に対して慈悲の心を持って接する、このようなニュアンスでしょうか。別に児童が罪人じゃないし私という人間の何もかもが清廉潔白というわけでもないので修道女でもないんですが、とりあえずのイメージです。

コレの何が問題かというと…。
これが独立して使い分けることができれば良いのですが何だか自分の中でごちゃごちゃしているのです。

先述の「皇帝」は私が自覚し得ない外見の部分なのです。しかし、どちらかというと私は権威主義的な雰囲気の人間にはあまり惹かれないのです。だから私は「教皇」になりたい。だからといって「教皇」を使いすぎると消耗するのです。むしろ、「皇帝」の方が簡単に使うことができるのです。

周りからしてみれば私という人間は雄弁で堂々とした魅力的な人間に見えるのかもしれません。しかし当の本人の内面はナイーブで内気でマイナス思考でクヨクヨして夜には枕を濡らすような感じです。なぜこのような極端なギャップが起こるのか。いろいろ調べ尽くして、ある学問に辿り着きました。

それが「西洋占星術」です。
とりあえず占星術であれ心理学であれ、自分を知りたければ偏見持たず取り入れたい性分なので、ひとまず視野を広げるために少しだけ触れました。
ものすごく浅学なので占星術を学ばれている方からしてみれば、ニワカ乙wwwwって感じなのかもしれませんが…。

私が注目したのは「太陽星座」と「アセンダント」です。

「太陽星座」とはいわゆる星座占いの星座です。私は魚座です。見てみると色んなことが書いてありました。共感力が高いとか感性が豊かだとか、あざといとか優しいとかスピリチュアルなものにいきやすい、とか境界線がない、とか…。確かに!!!!と思うものもあれば、違うって思うこともあります。この違うっていうのが他の惑星との兼ね合いらしく、難しくて手を付けられていませんが教養の1つとして覚えておくと何か世の中の心理を知ることができそうな、そんな学問だと思います。
恐らく、この魚座が私の「教皇」の部分なのでしょう。そして、この「太陽星座」とはこの世に生を受けた時に、この特性(魚座)を生涯かけて獲得していきますよ、というものらしく後天的に身に着けていくものだそうです。だから、獲得するまで扱いにくく難しいものだそうです。誤解を恐れずに言うならこの世に生まれた時に神様に約束をした自分の使命、とも言えるでしょう。

では「アセンダント」とは。
これは、私がこの世に生まれ落ちた時、東にいた星座、という意味らしいです。自分と一緒に生まれた星座だから自分そのもので、外見や第一印象、気を遣わずとも使える能力を司る星座とのことでした。

私の場合、アセンダントは「獅子座」でした。
あぁ、なるほど…。
つまり私は生まれながらにして外見上と雰囲気上は月桂冠を被っているということなのでしょう。だから、か。要は強そうに見えるそうなのです。私が持つカリスマ性は、アセンダント獅子座からくる月桂冠を被った(被ったように見える)私を半ば信奉するような形で表れるということなのかな、と考えています。

要は(権力濫用の危険性ありの)権力者と(汚職なしの)聖職者の側面を持つ自分が私の中にいるということになります。

さて。以上を踏まえると、恐らくこれら2つをうまーく利用していけば自分の心を守りつつもう少しうまく学級経営できそうな雰囲気がします。

1つめ。
内面はヨワヨワですが、見た目何言っても動じなさそうに見えるらしく、けっこう児童に悲しいことを言われます。見た目獅子座、内面魚座的な。
そこで、ライオンさんにお魚さんを守ってもらうことにします。イメージとして児童と接する時はお魚な心をライオンさんに守ってもらう、プロテクターになってもらう感じ。だから大事な心を外界に晒すのではなくライオンさんにいてもらって動じなくさせよう、という魂胆です。感覚的なものなので言語化が困難…。
2つめ。
獅子を飼っているならば、やはり私は皇帝なのでしょう。しかし、ネロのような暴君になるのではなくマルクス・アウレリウスのように聡明で慈悲深く自省を怠らぬ皇帝にならねばなりません。「太陽星座」が魚座なので、私が目指すべきは恐らく皇帝ではなく慈悲の「ローマ教皇」であることは間違いありません。実際、魚座はキリスト教的な星座である、と言われているのであながち間違いではないでしょう。
しかし、自分の中にある素質を十二分に発揮したいのならばお魚さんとライオンさんをバランス良く使っていきたいのです。だから、最終目標はローマ教皇ですが、まずは五賢帝のような治世を目指したい、というわけです。

獅子が魚を護り、魚が獅子の暴走を抑える。
皇帝が教皇(キリスト教)を守護し、教皇が皇帝に戴冠をして、互いに持ちつ持たれつの関係を作る。かつての神聖ローマ帝国の皇帝とローマ教皇の関係に似ています。

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