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24.7.8 「おわり」について

今まで経験した「おわり」の中でも特に印象に残っているものがあって、
わたしの場合は中学の卒業式である。

一大イベント。
その非日常性にわたしは当日「卒業ハイ」になった。
お別れだというのに、なんだか楽しくて仕方がない一日だった。

仲が良かった子ともそれほどでもなかった子とも写真を撮った。
卒業アルバムにはメッセージを書いてもらった。

元気でね、とか高校も一緒だからよろしくねとか。
そんなこともおそらく言いながら、そこそこ楽しかった中学を卒業する割に1秒も泣かなかった。

そして淋しさは翌日にやってきた。
学校にもう行かないのだということを1日遅れて実感した。
半分泣きながら友達に電話した。
彼女はわたしに付き合ってくれた。
近所の公園でずっと話をした。
話の内容は覚えていなくて、ただとても暖かい日だった。

卒業式の時点ではもう日常は終わっていたのだと知った。
式はイベントであり、その前のなんでもない日々こそが大事だった。
無限ではないことを意識できていたら、もっと大切に過ごせたら良かった、なんて思ったのだった。

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6月いっぱいで退職した。

わたしは最後の1週間になってもまだあと1週間も出勤するのかと憂鬱だった。
出勤すれば嫌なことばかりではなく、笑顔になることもたくさんある。
同僚との何気ない会話。
それは天気の話や子供の話、最近スーパーで起こった面白いこと、物価高について、それから「ヒマやなー」と「暑いなー」。
1日1日と出勤日は減っていった。
そして最終出勤日、わたしは「退職ハイ」だった。

朝から挨拶用の焼菓子が入った紙袋をぶら下げ、そしてどのタイミングでそれぞれの人に挨拶しようかと気が気じゃなかった。
挨拶をすれば日常では交わすことのないような会話になる。
いつも一緒だった同僚とさえそうだった。

あと1日出勤するから、と思っていたがわたしの職場での日常は実質もう終わっていた。
最終日は非日常だった。
あたたかい言葉をいろいろな方からもらった。
思った以上にどうやらわたしは周りに支えられていたのだな、と思った。
職場の嫌なところもたくさんあったはず。
でもそれさえも忘れてしまうくらいに、わたしはとても清々しく「おわり」をむかえることができた。

そして退職から1週間。
思い出すのは退職ハイの最終日ではなくやっぱり日常なのだ。
今回もその日常真っ只中で、この時間が特別なんだと意識することができなかった。
それとも意識した時点でそれは日常ではなくなってしまうのか。

なんでもない時間、会話、いつもいた場所、それこそが大切な記憶。
もう少し時間が経てば、良い記憶も嫌な記憶もひっくるめて懐かしく思い出されるのかな。

仕事を辞めた今、後悔はない。
今は自分の時間を自分の好きなことに使えている満足感に溢れている。
ずっと片付けたかった場所を綺麗にして、掃除して、晴れたらシーツを洗い、さっぱりとした部屋で今このnoteを書いている。
家計簿もつけ始めた。
お金の動きを把握して意識を向けてみる。
収入減るから考えないと!
あと子供達と楽しいことしたいな。

おわりは始まり。
新しい生活を今はめいいっぱい楽しんでいます。







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