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なりたいおばあちゃん、なりたくないおばあさん。

おばあさんになるまで、できれば健康で生きていたいと思う。

そして歳をとればとるほど謙虚でいたい。そう思うのは自分がまだまだ謙虚からは程遠いからだろう。

長年生きてきた経験から傲慢になってしまう事は避けたい。

そして「あの時のおばあさん」のようにはなりたくないなぁという思いがある。



小学校一年生くらいだったのだろうか。古い記憶だが、鮮明に覚えている。

近所に小さな商店があった。徒歩五分ほどの距離だったので、よく歩いてお菓子を買いに行った。

今だったら当たり前のように親が一緒に行くけれど、その頃は小さい子供でも一人で買い物に行っていた。

私はその日、とても嬉しかった。なぜなら「当たり」が出たからだ。

グーチョキパーどれかの形をしたグミで「じゃんけんグミ」とかそんな感じの名前だったと思う。とても好きなお菓子だった。そのグミのパッケージの裏の紙を剥がすと「あたり」と書かれていた。

もう一個もらえる!私はその「あたり」を握りしめていつもの商店へ向かった。

到着するとすぐお菓子売り場に行き、例のグミを一つ取りレジへ持っていった。

商店の店番は「おばさん」の時もあれば「おばあさん」の時もあった。その日はおばあさんがレジの中にいた。

私はレジにグミと当たりを並べて置いた。お金を払う気は全くなかった。当たりならもう一個って書いてあったし。

ところがおばあさんはこう言った。

「それで、お金は?お金がないと買えへんよ。」

言葉が出なかった。なんで?と思ったけど聞けなかった。そこで何か言葉を返せるような子供ではなかった。

その時の気持ち。悲しいとか悔しいとか腹が立つとか、そういうものではなかった。

私はただただ「恥ずかしい」と思った。

お金を払わずにグミがもらえると喜んでいた。自分がすごく欲張りな人間に思えた。(その頃は欲張りなんて言葉も知らなかったけど。)

私がしっかりと記憶しているのはそこまでで、その後どうしたのかは覚えていない。

何も買わずに帰ったのか、お金を払ったのか、母と一緒に出直して一個もらえたのか。

この出来事に対して大人になった今思う事。おばあさんは幼い私の気持ちに寄り添ってはくれなかった。

当たりが出たんだね、良かったねと一言言ってくれたら。当たりでもお金がいるのだとしたらごめんね、と説明してくれたらいい。

子供だからって、おとなしそうな子だからって、あんなふうに言ったんじゃないかと思ってしまう。子供だって人間なんだ。

30年近く前のあの時の私に言ってあげたい。「あなたは何も恥ずかしい事なんかしてないよ。」と。

相手が子供でも大人でも関係ない。相手の事を思いやれる人になりたい。何十年も生きているのなら尚更だ。

だから、私はあんなおばあさんにはなりたくないなぁと思う。



「でも、そのおばあさんにも何か理由があったのかもしれないよ。」と彼女なら言うだろう。私の憧れのおばあちゃん。それは夫の母方の祖母だ。

おばあちゃんは95歳でとても元気。料理も裁縫も上手。そしてかわいい。

いつもみんなの心配をしている。あの人は元気か、あの人の調子はどうか、あの人の声を最近聞いてないから電話しようか…

自分はそっちのけで周りの事を考えている。

新婚時代から私の事も気づかってくれた。寝不足していないか、ちゃんと食べているか、実家のお父さんは元気か、無理しないでねと。

その言葉に押しつけがましさは微塵もない。自然で柔らかい。

最初は挨拶がわりの社交辞令のようなものだと思った。でも違った。おばあちゃんは本気で心配してくれていた。

おばあちゃんは周りの人をとても大切にしている。だから周りの人もおばあちゃんが大好きだ。

「あんなふうに歳をとりたい」と思わせてくれる人が身近にいる事はとてもラッキーだと思っている。



きっと、子供の頃のなりたくない方のおばあさんにも何かあったのだろう。なんかむしゃくしゃしてたとか、お店が赤字だったとか。

ずっと心の片隅に引っ掛かってた嫌な記憶が、やっと今日スーッと消えていったような気がする。



来月はおばあちゃんの誕生月だ。今年も大好物のスイカを一玉贈ろうか。

毎年スイカを抱えて届けに行くと、部屋にはもうすでに三玉ほど並んでいる。「先越されたかー」と思う。

並んだスイカにはおばあちゃんへの愛が溢れている。

結局おばあちゃんには食べきれず、毎年私はその愛のおすそわけをいただいている。

御利益がありそうだ。ありがたや、ありがたや。

ありがとう、おばあちゃん。















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