村上春樹「ドライブ・マイ・カー」を読んで
最初の数行を書店で読んで、これは購入してみようと思った。
村上春樹さんの小説「女のいない男たち」。
6つの短編からなるこの本の1話目が「ドライブ・マイ・カー」である。
まず冒頭の抜粋した箇所に関しては、軽いけれど、「わかるー!!」だ。
幼い頃から周りの大人がそうだった。
母も、おばさんや友達のお母さんも。
みんな慎重で、車線変更がなかなかできず、右折をするタイミングも見送りがち。
そしてわたしも免許を取ってからは同じような道をたどる。
しかし同年代の友人には自称運転上手がいたりして、そうゆう子を助手席に乗せた場合「安全運転すぎる」とか「今行ける」とか、あげくの果てには「座席が直角すぎる」などと(今思えば何が悪いの?と思うが)少し馬鹿にしたように言われ悔しい思いをしたものだ。
この物語に出てくる主人公、家福という名の俳優の専属運転手をすることになったみさきはその点、上記のどちらでもない、とてもスムーズな運転をする女性だった。
家福は49歳の時に、同じく俳優だった美しい妻を病気で亡くしている。
それから10年ほど経っているので60歳前後、専属運転手みさきは二十代半ば。
車内で繰り広げられる会話がメインの物語だ。
終盤とても好きな箇所がある。
妻が生前、ある出来事をきっかけに他の男性と関係を持つようになってしまった。
それを家福は知っていて、相手男性と接近し、友人関係になろうとする。
ところが知れば知るほど、その男性のどこに惹かれたのかが分からなくなってしまう。
たしかに顔は良いが、妻が惹かれるほどの内面的な奥行きを全く感じない。
はっきり言ってたいしたやつじゃない。
そういうのは病のようなもので考えても仕方がない。
こちらでやりくりして呑み込んで、ただやっていくしかないとみさきは言う。
奥さんは亡くなっていて、もう真実を知る術はない。
たとえ生きていたとしても本当のことなんてその人の内側にしかなくて、さらに言うと本人でさえも自覚できないこともたくさんあるのだろう。
ただ、みさきのいう、惹かれていなかったからこその行動だったのではないかという意見は主人公にとっては新しい視点だったのではないだろうか。
そこに少しのやさしさを感じる。
実際の、本当のところはわからない。
永遠にわからないままなのだけれど、考えても仕方がないことを抱えてやっていくしかない。
それがとても人間らしいなあと思うのだ。
車内の静かな映像も浮かんでくるような物語だったので、次は映画も観てみたいと思っています。
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