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道長の御嶽詣と経塚

仏教では戒律を遵守する、禅定する、智慧を獲得するという三項目を「三学」と呼び、ことさら「実践する、実行してみる」ことが重要とされました。初期の教学では三法印(四法印)や十二縁起、四諦八正道(したいはっしょうどう)が、大乗仏教時代になると波羅蜜(はらみつ)、仏性・如来蔵思想などが展開していきました。

インドで生まれた仏教は、やがて、中央アジアを通って、中国、モンゴルなどに伝わり(これを北伝仏教といいます)、その後、朝鮮半島を経由して6世紀頃日本に伝来したとされています。またインドからセイロン(現スリランカ)を経由した仏教は、11世紀にはビルマ(現ミヤンマー)やタイへと伝わりました(これを南伝仏教といいます)。

高野山は主に3つのエリア、「壇上伽藍」「金剛峯寺」「奥之院」に分かれます。「壇上伽藍」は弘法大師空海が開いた真言密教の根本道場。お堂が立ち並び、多くの仏様が祀られています。「金剛峯寺」は高野山真言宗の総本山で、儀式や法会が行われます。「奥之院」は弘法大師信仰の中心地。お大師さまを祀る御廟へと続く参道は千年杉に覆われ、多くの供養塔が立ち並びます。

高野山真言宗総本山金剛峰山(奈良県吉野郡吉野町)
弘法大師・空海(くうかい)によって開かれた真言宗は、仏教の中でも比較的中期から後期にかけて展開された「密教」であるといわれます。

金剛は仏教で最上を意味する言葉
総本山金剛峰山の管長と座主につける位は大僧正たる僧官。
僧正には大僧正、権大僧正、僧正、権僧正の4つがあり大僧正が僧官制の頂点に位置する。キリスト教なら大司教に相当する。

総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。 一山境内地

金剛峰山は、修験(しゅげん)の始祖、役⾏者(えんのぎょうじゃ)が開いたと
される霊地です。

真言密教の「真言」とは、仏の真実の「ことば」を意味していますが、この「ことば」は、人間の言語活動では表現できない、この世界やさまざまな事象の深い意味、すなわち隠された秘密の意味を明らかにしています。弘法大師は、この隠された深い意味こそ真実の意味であり、それを知ることのできる教えこそが「密教」であると述べています。

入我我入 修法(隠された秘密の意味を知る修行のあり方)
仏(本尊)の身(み)と口(くち)と意(こころ)の秘密のはたらき(三密)と行者の身と口と意のはたらきとが互いに感応(三密加持)し、仏(本尊)と行者の区別が消えて一体となる境地に安住する瞑想を言います。

藤原彰⼦(988〜1074)は、12歳で⼀条天皇に⼊内して中宮となりましたが、ながらく天皇の子が授からなかった。

藤原道長
寛弘4年(1007)年閏5⽉17⽇から精進潔斎に⾏われ、8月2日未明に⾦峯⼭参詣(きんぷせんさんけい、御嶽詣〔みたけもうで〕とも)に出立。
。京の都を出た道⻑⼀⾏は、⽯清⽔⼋幡宮から、興福寺、⼤安寺を経て吉野に⼊り、8⽉10⽇に⾦峯⼭上に到着しました。
翌11⽇、⼭上にあるいくつもの堂舎に様々な品物を奉納しています。
書写した経典を納めた⾦銅製の経筒を本堂の前に埋納し、その上に⾦銅の燈籠(とうろう)を建て、⽕を灯し供養しました。

延喜5年(905)の宇多上皇の参詣をはじめ、平安貴族にとって⾦峯⼭参詣は重要な⾏事だった。
⻑徳4年(998)、道長が33歳の時に御嶽詣を考えたが疫病流行により断念していた。
しかし、天皇の中宮となった娘の彰⼦が皇子を産むことを祈願する為と京で相次ぐ厄災を祓う為に、9年後に御嶽詣が実現した。
険しい道のりの登山であり、岩場のクライミングも有る命がけの参詣だった。
翌年には彰⼦が懐妊し、敦成親王(あつなりしんのう、後⼀条天皇)が⽣まれました。懐妊がわかった際に道⻑は「みたけのしるし」と喜んだ。
彰⼦は、後⼀条天皇、後朱雀天皇を産み、後冷泉天皇と後三条天皇の祖⺟にもなりました。曾孫の⽩河天皇が即位した翌年、87歳で逝去された。
医療が未熟な平安時代の貴族の推定平均寿命は男性が50歳、女性が40歳といわれ、結核や脚気で亡くなる貴族が多かったこの時代に彰⼦は長寿だった事がわかる。
そして、摂関家の権勢は盤石なものとなる。

摂関家の繁栄に肖ろうと、有力者が全国に経塚をつくるようになった。

高野山には歴史上の著名人の墓が敵味方の区別なく多く存在している
霊元天皇~孝明天皇の墓も有る
織田信長と明智光秀、そして豊臣秀吉といったまさかの墓も並ぶ。
上杉謙信、武田信玄、伊達政宗、石田三成、柴田勝家などの名だたる戦国大名、
徳川家康と徳川秀忠を祀る霊屋(たまや)も高野山にある。
親鸞上人、法然上人、春日局、陸奥宗光、初代 市川團十郎
浅野内匠頭墓所と赤穂浪士四十七士の墓も高野山に有る。

中野区上高田にある萬昌院功運寺の住職、佐々昌樹さんによると、先代や先々代の頃には、萬昌院功運寺にある吉良上野介の墓が倒され、唾をかけられるといったことも度々あったという。
年末恒例の忠臣蔵ドラマや映画が一切なくなった理由もここらへんから?

吉良を庇おうとするあっち側の人
当時の奉行所が念入りに捜査して作成した記録を後世になって、それは間違いだというのはおかしな話である。間違いなら奉行は切腹ものですね。吉良が茶人だからといって恨まれるようなことをしないという論旨も誤りで史実の書き換えになる。当時の警察(奉行所)の記録が正しいというほかなく、相当な恨みを買ってない者が殿中で斬りかかられる理由もない。
物語だから史実じゃないというのも早計ですね。

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