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月やこんこん宴の夜に [幻想小説/短編]

 
01.

 ひとりで留守番をする日は、鍵をゆびで抱きしめてから眠りにつく。

 八月からは、母の仕事の帰りが遅くなった。「はやく寝なさい」とだけ言伝をのこして出て行った母は今夜も残業らしい。留守番歴一ヶ月足らずのわたしは、晩夏に近づくにつれ浅い眠りと親しくなり、宵っ張りの一人娘になった。

 真夜中。ふたり暮らしには広すぎる1LDKでは、冷蔵庫がことこと音をたてている。家電が夜泣きをはじめて、洗濯機の中に靴下を忘れてはいないかが気がかりで、だんだんと眠りにつくまでが長くなる。朝がやってくるまで、あと羊をいくつ数えればいいのだろう。
 こんなとき、ふと、時計を見ると針のすすみが妙にゆっくりと感じられて、みぞおちの底からため息がでるのだ。

 お腹の減り具合が気がかりで、立ち上がった。

 台所まで歩いて、なんとなく落ち着かず、冷蔵庫をぱたぱたと開け閉めしてみる。橙色の明かりが明滅する台所で、生卵を手にとった。時計をながめるとすでに午前0時過ぎ。とがめるものはいないとはいえ、夜食はダイエットの天敵だ。4月の体重測定では、理想体重をキープしたものの、冷蔵庫の誘惑は抗いがたい。

 決死の抵抗を試みていると突然、こんこんとノックの音が聞こえた。はっとして、玄関先に視線を送ると、ノブに触れるよりも先に扉がひらいた。

「こんばんは。今夜の夢をお届けに参りました」

 すがたを見せたのは、ひとりの青年だった。深緑色のスーツに身をつつんだ彼は、一通の手紙をわたしに差し出しす。

「はあ、今晩の夢ですか」

 思わず聞き返す。

「ええ。まことに恐れいりますが、お代金を徴収しなければなりません」

 夜の墨色をおびた真っ白な封筒は赤いシーリングスタンプで綴じられている。一見して、おかしな点は見当たらない。差出人が不明であることを除けば。
 宛先は、みまちがえようもなく、わたしの名前になっている。

「あの、代金というのは……」
「初回のお客様でしたか。僕らの会社は、金銭でのやりとりは行わないんですよ。その代わり、なにかひとつ、今晩の夢に相当するお品をいただきます」

 お品。物々交換ということだろうか。代金もなにも、わたしの手には生卵しかない。

「これでもいいですか?」
「もちろん。かまいませんよ」

 配達夫の青年はにこやかに笑う。
 そして生卵を鞄にしまい、「それではよい夢を」と告げて、手紙を残して去っていった。

 呆然としてしまう。いったい、なにが起こっているのだろう。生卵と引き替えに受けとったのは一通の手紙。開封してみると、一葉の便箋がおさまっている。

『月見夜会へのご招待。午前三十時ごろより、マツマエ広場にて定例夜会を開催いたします。どうぞ振るってご参加くださいませ かしこ』

 月見夜会。
 初めて耳にする単語に心が踊る。
 夕刻の帰り道に東の空からやってくる、うっすらと白い三日月には覚えがある。けれども、月見というイベントがわたしの日常に訪れたことはない。優雅で、耽美で、清々としたイメージに、つよく惹きつけられた。

 留守をあずかる身で扉のむこうに飛び出してしまうのは、裏切りだろうか。玄関の先を見つめながら、逡巡をふりきり、ついに鍵を握る。行こう。
パジャマ姿のままふらりと戸口を通り越し、かくしてわたしは夢を見る。



02.

 マツマエ広場というのは、駅前の繁華街の裏手にひっそりと建つ神社の境内にある、わたしの町の小さな集会所だ。
 母の言によると、町内会の集まりなど、地域交流の拠点になっているらしい。広葉樹が生いしげり、昼間におとずれても薄暗いあの場所までは、寄り道をせずに歩いても二十分ほどはかかる。

 真夜中の訪問客がとどけた手紙にしたがって、広場までの道をあるいた。

 途中、不思議な行列が視界をよぎった。
 子供たち――小学四年生くらいだろうか――の行進、それに続いて老若男女さまざまな年頃の大人たちが道沿いを歩いている。顔ぶれに見覚えはない。
 そぞろ歩きでゆったりと進む行進の最後尾に加わって、となりの様子をうかがうと、小さな女の子がねぼけまなこをこすっていた。

「こんばんは。あなたもお月見夜会に参加するの?」

声をかけると、大きな目をくりりと向けて喋りはじめた。

「そうよ。あなたははじめてのひとね」

 胸がどきりと跳ねた。

「どうしてわかるの?」
「あなた、鈴をもっていないもの。わたしたち、夜会のときは鈴をもって外にでるのよ。知らない?」

 耳を澄ますとリン、リーンと鈴の音が耳をくすぐる。

「知らなかった」
「しょうがないひとね。わたしの鈴をかしてあげるわ。ただし、ひとつだけ借りてもいいかしら」

 女の子はじいとこちらを見つめて、人さし指を尖らせる。

「あなたが手にもっているものを」

 手紙のほかには、家の鍵しか持っていない。渡してしまえば帰れなくなる。ぶんぶんと首を横に振る。

「だめよ。これだけはあげられない」
「それならあなた、きちゃだめよ。夜会に参加するには招待状だけではなく、ひとつ供物をささげなければいけないの。たいせつなものを、ひとつ、ね」
「たいせつなものをひとつ」

 そんな話は聞いていない。招待状にも記されていなかった。

「だからね、今回だけ、わたしが貸してあげてもいいわって言っているのよ。その鍵と交換で」

 ふうむ、と熟考してみれば、悪くない交換条件だ。

「あとで返してくれる?」
「もちろんよ」

 言葉のキャッチボールを交わしている間に、行列はぐんぐん進んでいく。頭のなかに描いた地図が正しければ、マツマエ広場はもう目前だ。意を決して握りしめていた手をほどく。
 鍵を手放して、女の子に手渡した。

「ありがとう。はい、代わりにこれ、あなたの鈴よ」

鈴の受け渡しが終わると、彼女はひらりと身をかえして行列から抜け出た。

「先に帰るわね。おねえちゃん」

待って、と告げるよりも先に、小さな少女は走り去っていく。行列は先へ先へと急ぎ足になり、呆然と歩くわたしを連れて進んでいく。


03.

 マツマエ広場に到着すると、すでに夜会ははじまっていた。
 受付嬢代わりだろうか、広場と道路の交差点に狐面の女性が立っているのがうかがえた。道ゆく人びとは、狐面の彼女に鈴を見せてから広場の中央へと進んでいく。
 広場の中央では、キャンプファイヤーの宵のように大きな薪が燃やされ、ぐるりと囲むようにして、ひとびとが座っている。おとなも子供も、みな、たのしそうな表情をしていた。

 キャンプファイヤーを囲うひとびとは、宴会の真最中のようだ。近づくと、髭の長いご老人からからおもむろにグラスを渡された。中をたしかめると黒い水で満たされていた。

「お嬢さん、今夜の月はべっぴんだよ」

 ご老人はしわがれた声で、さも愉快そうに話す。釣られてたのしくなってしまう。

「月にも美醜があるのですか?」
「そうとも。お月さんの機嫌ひとつで、夜の温度が変わるのさ。ごらんなさい、今夜は青々として煌々と、天の川をわたっておられる。まるで夜天にボートを浮かべるようじゃないか」

 私はグラスを手に握り、黒い水の表面に浮かぶ団子のような月をみた。
 ――夏の満月。
 なるほど。いかにもおいしそうだ。

「僕らはこうして真夏の月を胃の中でとろりとするまで溶かすのさ。この仕事なくしては、我々は秋を迎えることはできない。だから、今晩はきみの力が必要なんだ。さあ、さあ、あの席へお行き」

 細長くのばしたはんぺんのような机の最奥、いわゆるお誕生日席には、大声で騒ぎ立てている、ふとっちょのおとこがいた。
 場の雰囲気にのまれ、そしてなにより夜空の月に背中を押され、そのまま角の席に腰を下ろす。と、呼吸が止まった。

 向日葵と蚊とり線香と汗と苺シロップのにおいが一同にそろって、わたしの鼻をくすぐるのだ。顔をおおうのを我慢したら、口許には微妙な苦笑いがこみ上げてきた。
 ここはぐっとこらえて。場のノリである。
 ふとっちょ――みなに歓待され、目前でおおいに騒ぎまわっているのは、どうやら夏の太陽というらしい。

「君が夏を終わらせるのであれば」

 ふいに隣にやってきた青年が急かす。グラスいっぱいのどす黒い水を指さしながら。
 太陽を隠すため、月を飲めと。
 空をあおげば星影はさやかに、夏の大三角がいっぱいに両手をひろげて待ちかまえている。鷲座のアルタイル。白鳥座のデネブ。琴座はベガ。今宵の満月を飾る銀星のネックレスは、ことさらにうつくしい。

 まるで誘われるように、わたしは歩み出て、夏の太陽のとなりの席へ。
 ――ぐっと黒い水を飲み込む。

 こくこくとのどを鳴らして水を飲み干すと、からだの内からぽかぽかと熱がわきだし、いまならば何でもできるような心地がする。

「今宵の月は美味なるかな、美味なるかな」

夏の太陽は、浮き浮きとからだを揺らして、グラスの中の月をかき混ぜていた。

「美味ですねえ」

 興が乗って、太陽に応じる。すると彼も嬉嬉としてグラスをあおり月を飲み干した。

「夏の終わりを飾るには、絶好の月夜よ。嗚呼、かなしい。おおいにかなしい。今宵、月を飲んでしまえば、我々は旅にでる」
「旅に出られるのですか」
「そうとも。次の土地で、夏を催し、また去っていく。そのように過ごすことを運命づけられた民なのだ」

 それは初耳だった。たまらずに尋ねる。

「次はどちらに?」
「さてね。夏を呼ぶ土地に参るさ。お嬢さん、いや、きみは今夜の賓客だね。夏はどうだい」
「夏は好きですよ」

 本当のことだ。夏休みは終わってしまったが、愉しい記憶と悲しい記憶はともに頭の中に残っている。
 夏の終わりに思い出すのは、父のことだ。三人でともに暮らしていたわたしの家族は、夏休みの間にばらばらになった。父が出ていき、母が仕事を増やし、わたしは家事に少しだけ慣れた。

「これからも好きかね」
「はい」

 そうか、と呟くと、夏の太陽はほがらかに笑い、机にグラスを置いた。彼は大きく息を吸い込み、合図する。

「今夏の夜会はこれにて仕舞いとする。みなのもの、旅の支度を」

 彼が言葉を吐き出すと、子供たちが、青少年たちが、女性たちが、老人たちが、いっせいに席を立ち、しぃんと静まりかえった。

 虫の音だけが響く広場の中央で、夏の太陽が天上の月を見つめる。ほう、と彼がふたたび息を吐くと、夜空の星がひとつキラリと尾を引いて流れた。かと思えば、まるで群青の空を縫った糸が次々にほどけていくように、星がこぼれて燃え落ちていく。

 夏の終わりの流星雨。
 夢のような光景を目のあたりにして、そういえばこれは夢だったと思いだし、せめて忘れないようにとだけ切々と願った。

 季節はめぐり、わたしたちは来る秋にそなえて、瞼の裏の星を数えるだろう。


04.

 本当はふたり欲しかったのよ。と、母が告白したのは、月曜の朝のことだった。
 目玉焼きとソーセージを炒めて朝食の支度をしているわたしに向かって、突然、そんな話を持ちかけてくるものだから困ってしまう。

 つとめて穏やかに母が言うのは、わたしに妹がいた可能性について。父の前では決して言えずにいた言葉を、ゆっくりと吐き出す母は、以前よりすこしだけ皺が増えたように見えた。

 朝食に添えた牛乳を飲み干し、支度を終えて、そしてわたしは父に会いに行く。いってきますを告げて、家を出ると、迎えるのは秋の風だ。
 すずやかな風の手に髪を撫でられて、母の前では飲み込んだ言葉が、唇の端からこぼれ落ちた。

 ――知ってたよ。
 昨晩、鈴を貸してくれたのはきっと彼女だろう。わたしたちは夢の記憶を持ち越して、それでもここでうまく笑えるように生きていく。


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2017年執筆後、加筆。未発表にしていた作品を発掘したため掲載します。
ゆめとうつつの境を行き来するような、あわい幻想小説を書いてみたい時期だったのかもしれません。
少し季節を先取りしたおはなしですね。これからくる夏がおだやかであることを願って。

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