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ふつうって言わない

息子が生まれた時、娘は3歳だった。

娘の超スローだった発達ぶりに比べて、息子の発達はとても速かった。僕ら夫婦の感覚でいうと、あっという間に寝返りをし、おすわりをし、はいはいをし始めた。周囲のものごとに盛んに興味を示し、活発に動き回った。

共同注視も早かった。「ほら、お花が咲いてるよ〜」と親が指し示すと、赤ちゃんもそっちを見るっていう、あれだ。娘はこれをやっても全く反応しない赤ちゃんだった。息子は、すぐに反応するようになった。

息子の順調な感じがうれしくて、僕らはよく、

「これがふつうの赤ちゃんなんだね。」

「ふつうはこうなんだね。」

と言いあっていた。

でも、しばらくして、妻が言った。

「ふつうって言うの、やめよう」と。

僕は、はっして、すぐに同意した。

当時3歳だった娘は、「ふつう」という言葉の意味は、まったく理解していなかったと思う。でももし将来理解して、その後で「息子はふつうだ」という文脈で親が「ふつう」と言うのを聞いてしまったら・・・

娘があまりにかわいそうだと思った。

というか、娘がどう傷ついて、どういう影響が出るかわからない。怖いと思った。

それ以来しばらくは、家庭で「ふつう」という言葉をまったく使わなかった。今はたとえば「この野菜の高さはふつうじゃない」とか、そういう文脈では「ふつう」を使うけど。でも今も、「息子はふつうだ」とは決して言わない。だれかお友達の名前を挙げて、「あの子はふつうだ」とも言わない。

だからといって、

「ふつうって何だろう?」とか

「世の中に、ふつうなんてないんだよ」とか

そういう話を妻とした記憶もない。妻とはあまり一般的な、抽象的な議論はしない。僕たちが育てているのは、目の前にいる具体的なこの娘であって、この息子なのだ。

それに、肩ひじ張らなくても、僕らの周りの人たちはみんな優しくて、娘を指して「この子ふつうじゃないよね」なんて言う人はいないし。

でも、正直に言おう。それでもやっぱり僕は、世の中の「ふつう」を警戒している。

それは娘が、見た目はけっこうふつうだから、っていうのもある。

運動がとても苦手な娘だけど、歩行には目立った支障はない。話すのはとても苦手だけど、街中を黙って歩いていると、障がいがあるようには見えないのだ。

でも知らない人に話しかけられても、返事はまずできない。往来のど真ん中で、ぼ〜っと立っていたりもする。そのすべてを家族や、だれか親しいひとがフォローできるわけじゃない。

すると、

「ふつう、なんか答えるだろ」とか、

「ふつう、ここには立たないだろ」となってしまう。

娘に立ちはだかる「ふつう」の壁は、とてもぶ厚い。

それでも、僕は思う。

ふつうに走れなくても、ふつうに話せなくても、輝ける道はきっとある。

ふつうなんて蹴とばせ、娘よ。

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