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生物学における「遺伝子が保存されている」という言葉づかいについて僕が思うこと

遺伝子にまつわる言葉には、比喩的な言葉が多い。

例えば、
「遺伝子が保存されている」
という表現なんかが、そうだ。

この言葉の背景を知っていれば、
「うまい表現だなぁ」
と感心するけど、

背景を知らないと誤解を招きかねないと思う。

生物が、特定の遺伝子を、
 大切に保存する
なんてことが、本当にあるのか?

あるわけない。

人類が、遺伝子の本質を理解し始めたのは、ようやく20世紀になってからだ。
キリンやアサガオが、遺伝子の存在を意識しているはずがない。
(…たぶん)

ましてや、特定の遺伝子を、大切に保存しようと思うわけがない。

では、
「遺伝子が保存されている」
とは、どんな状態なのか?

それは、ある遺伝子が
「いろんな生物種に共通して見られる」
という状態のことだ。

例えば、「遺伝子A」が、植物にも、動物にも、菌類にも、藻類にも、共通して見られるとする。

遺伝子Aの配列は、生物種によって少しずつ違いがあるけど、でもほぼ同じ配列になっているのだ。

010_系統樹

こういう状態を、生物学では、
「遺伝子Aは、真核生物の間で広く保存されている。」
と言う。

植物や動物や菌類や藻類は、
その共通の祖先である原始的な真核生物から、
分岐して分岐して、
20億年ぐらいかけて、
現在の姿になった。

だから、
 遺伝子Aが、現在のあらゆる真核生物に共通して見られる
のであれば、
 真核生物の共通の祖先も、遺伝子Aを持っていただろう
と推定できるんだ。

これは確かに、木や動物やキノコや藻類が、20億年もの間、遺伝子Aを大切に保存していたようにも見える。

うまい表現だ。

でも、なぜ、こんなことが起こるんだろう?

遺伝子って、DNAっていう長細い、ふわふわした分子だ。

その配列なんて、とてもはかなげで、20億年もの間ほぼ変わらなかったなんて、とても信じられない。

でも、こう考えてみよう。

遺伝子Aが、細胞分裂に必要な遺伝子だったとする。
つまり、遺伝子Aがないと、細胞分裂ができない。
細胞分裂ができないと、生きていけない。

だから、何かの拍子に遺伝子Aを失ってしまった細胞は、跡形も残らない。
逆に、生き残った細胞は、必ず遺伝子Aを持っているわけだ。

だから、真核生物は、進化の過程でその姿を大きく変えても、遺伝子Aを持ち続ける。

あと、遺伝子は、配列が変わると(多くの場合は)働き方が変わってしまう。

だから、遺伝子Aの配列があまり大きく変わってしまうと、遺伝子Aがうまく働かなくなって、細胞分裂がうまくいかなくなる。

そういう細胞は、やはり生き残れないだろう。

だから、遺伝子Aの配列は、世代を重ねるうちに多少は変わるにしても、あまり大きくは変わらない。

こんなわけで、
木も動物もキノコも藻類も、
遺伝子の配列をほぼ変えないまま、
20億年もの間、「遺伝子A」を持ち続けてきたんだ。

つまり、生きていくために絶対に必要な重要な遺伝子なら、長い進化のプロセスの中でも失われにくいし、配列も変わりにくい。

これは、当たり前の結果に過ぎないのであって、生物が意識して遺伝子Aを保存しようと努めてきたわけじゃない。

でも生物学者は、こういうのを
「遺伝子Aが保存されている」
と表現する。

ここで問題なのは、この「保存」という言葉が、ふつうに誰でも知ってる一般的な言葉だ、ということだろう。

こういう言葉づかいが、生物学にはままある。

そうじゃない言葉も生物学にはたくさんあって、例えば「X線結晶構造解析」とか、「二次元電気泳動」なんかだと、多くの人にとっては単に意味の分からない言葉、で終わってしまうだろう。

でも、「保存」という言葉は、誰でも知ってる。
「保存」と聞けば、誰でも何らかのイメージを思い浮かべるだろう。

でも、「遺伝子が保存されている」と聞いた時に、
 生物学の専門家が思い浮かべるイメージと、
 一般の人が思い浮かべるイメージには、
  かなりのギャップがあるはずだ。

ここらへんが、けっこう難しいんだよなぁ、といつも思う。



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