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『ジョックロック』に笑え 額賀 澪

6月9日発売 文庫『風に恋う』(額賀澪)番外編を公開!

全日本コンクール出場に向け猛練習を重ねる千間学院高校・吹奏楽部。そこへ、甲子園を目指す野球部から緊急の応援依頼が。部長の瑛太郎はどうする?
<部活×青春の物語をお楽しみください!>

「陽介君のお母さんから聞いたよ? 八対〇で勝ったんでしょ? 凄いじゃーん」

 夕飯の席で生姜焼きにかぶりつく大河に、母はテレビを点けながら聞いてきた。

「といっても、まだ二回戦だけど」

「ねー。まだまだ試合やんなきゃいけないんだもん、みんな大変よね」

 大河の通う千間学院高校、通称・千学の野球部は今日、全国高等学校野球選手権大会──「夏の甲子園」を目指す埼玉大会の二回戦に挑んだ。結果は、母の言う通り八対〇で大勝した。なかなか気持ちのいい試合だった。

「俺も、頑張ってみんなのこと応援するよ」

 口の下にタレがついた。指の腹で拭って舐めると、母は「そうね」と言ってテレビに視線をやる。すると当然時計を見て、慌てた様子でチャンネルを変えた。

「どうしたの?」

「今日テレビに千学が出るの知らないの? 吹奏楽部にテレビが密着してるんだって」

「ああ、そういえば、そんな話聞いたかも」

 新学期が始まった直後から、テレビ番組のスタッフがカメラを抱えて歩き回っているのを見かけたことがある。

「しかも今日で終わりじゃなくて、秋の全国大会まで何回かに分けて放送されるんだって」

「それ、全国大会に行けたらって話でしょ?」

 吹奏楽部が全国に行ったなんて話、これまで聞いたことがないし、強いのか弱いのかも大河にはよくわからない。

「あ、始まった」

 母が前のめりになってテレビを見つめる。大河も食事をしながら横目でテレビ画面を眺めた。『熱奏 吹部物語』というドキュメンタリー番組で、、千学以外の学校も取材しているみたいだ。全日本コンクールに出場するような強豪校から、部員集めに四苦八苦する弱小吹奏楽部まで、いろいろだ。

「あはは、男ばっかりの吹奏楽部だって」

 千学の学校紹介が始まって、母が笑う。千学は男子校だ。男子部員しかいない吹奏楽部が一体どんな活動をしているのか。千学はそういうテーマで取り上げられるらしい。

「なんか、色物っていうか、お笑い担当なんじゃないの、うちの学校」

 番組の雰囲気的にも、流れ的にも、そんな予感がした。

 でも。

『──彼の朝は早い』

 しっとりとしたナレーションとともに、まだ薄暗い朝の正門をくぐる一台の自転車がテレビに映る。千学の制服を着て、背中に楽器のケースを背負う男子生徒の顔がアップになる。「不破瑛太郎」と、彼の名が紹介された。名前と顔は知っているけど、話したことはない奴だった。

『いつもこんなに早いの? 大変じゃない?』

 無人の音楽室に足を踏み入れた彼に、番組の撮影スタッフが問いかける。

『楽しいから』

 不破瑛太郎はそうはにかんで、朝日が昇って白んできた窓の外を見つめる。背負っていた楽器ケースから出てきた楽器は、大河も知っていた。サックスだ。サックスってやつだ。

 野球部ですらまだ練習していない時間から、彼は一人でサックスを吹いた。その横顔を見つめながら、何故か自分の右肘を撫でていた。慌てて食べ終えた食器をキッチンに持っていって、そのまま風呂に入った。

 湯船の中で、自分の肘を睨みつけた。日に焼けて真っ黒になった肘に痛みや違和感はない。でも、いざ投球をし始めると痛みが走る。

 離断性骨軟骨炎を大河が患ったのは、今年の三月だった。肘の外側の軟骨が剥がれる、野球肘の一種だ。突然肘が腫れ、痛んで、曲げ伸ばしができなくなった。

そして、大河は高校最後の大会に出られなくなった。


 ふと、耳の奥で先ほど聞いたサックスの音が蘇る。目を閉じると、瞼の裏の暗闇を、まばゆい光を放つ蛍が飛んでいくのが見えた。光が尾を引き、鋭く眩しい線を引く。

「……吹奏楽部か」

 湯で顔を洗って、天井を見上げた。


  * * *


「野球応援ってことか」

 そう口にした吹奏楽部顧問・三好先生の表情をどう受け取ればいいか、大河には判断できなかった。微笑みを浮かべつつも真剣な目をした先生は、何故か一度音楽準備室を出て、三人の生徒を連れて戻ってきた。

 そのうちの一人の顔を見て、大河は思わず「げっ」と声を上げそうになった。向こうも、似たような顔をした。

「悪いな。部長だけ何故かいないんだ。早々に一人で練習しに行きやがった」

 先生が連れて来たのは、吹奏楽部の副部長の徳村と、金管楽器と木管楽器それぞれの統括をしているという、花本と宮地だった。宮地とは同じクラスだ。それも、三年間。

 大河が思わず顔を顰めてしまったのは、三人の中に宮地がいたからだった。

 出鼻を挫かれたなあと思いながらも、大河は先ほどと同じ説明を三人にした。

 自分が野球部の試合の応援を取り仕切っていること。千学の応援部は部員不足で休部中で、野球部の補欠とOBで一回戦、二回戦の応援を行ったこと。

「今の応援だとどうしても物足りないんだ。昨日の二回戦の相手なんて、吹奏楽部以外にチアリーダーまでいてさ、こっちの応援は見劣りしてた」

 八対〇で勝った。でも、今後強豪校と当たったとき、ピンチに陥ってみんなが諦めそうになったとき、状況を打破できるくらいの力強くて華やかな応援が必要だ。

「今年は甲子園出場も狙えるメンバーが揃ってる。吹奏楽部の力も、貸してほしいんだ」

 よろしくお願いします! と大河が勢いよく頭を下げると、三好先生が咳払いをした。

「お前等、やるか? 野球応援。俺は、お前等がやるって言うならやってもいいと思う」

 先生の言葉に、宮地がすっと壁に掛かっていたカレンダーを見た。切れ長の目が、ちらりと大河の方を向き、すぐに逸らされる。

「立石、埼玉大会の日程は?」

 宮地に言われるがまま、大河は決勝戦までの日程を答えた。

「やめておきましょう」

 あまりにあっさりと、宮地が言う。

「野球部が仮に決勝まで進んだら、応援で六日潰れます。うちの地区大会は決勝戦の翌々日です。練習時間も削りたくないし、本番二日前に野球応援は入れたくない」
 言いながら、宮地は耳の後ろをがりがりと掻いた。今度ははっきりと大河を睨んでくる。

「ていうか、そんなことも調べずに『野球応援をやってくれ』なんて言いに来たわけ?」

「いやあ、昨夜、吹部のみんなが出たドキュメンタリーを見て思いついたから、勢いで」

 ちょっとおどけた調子で、でも素直にそう答える。そのまま、顔の前で両手を合わせた。

「忙しいのは承知の上で、何とか頼めないか? 俺達、今年こそ甲子園に行きたいんだ」

 最後は情に訴えるしかないと思ったのだが、宮地の顔がさらに険しくなる。これは出方を間違えたか、と大河が思ったとき、宮地を制して副部長の徳村が前に出た。

「わかった。よーく、わかった」

 宮地に「まあ落ち着け」というジェスチャーをして、徳村が大河を見る。そして、どうしたものか、という顔でこう繰り出した。

「野球部が甲子園って目標を掲げてるように、俺達は『全日本コンクールに行く』という目標がある。本番まで二週間ちょっとってときに、突然予定になかった野球応援をしろっていうのは、ちょっと無理な話だ」

 大河はカレンダーを見た。吹奏楽コンクールの地区大会の日程が書き込まれている。その一週間前に、野球部は五回戦がある。コンクール本番前の一週間に、五回戦、準々決勝、準決勝、決勝の日程が、綺麗に収まっている。

「コンクールに出ない部員がいるなら、その人員を野球応援に回すこともできたんだけど、生憎、うちは全員がコンクールメンバーなんだ」

 徳村の後ろで、宮地が「そんなことも知らずに来るなんて」という顔で溜め息をついた。

「ホント、一年のときから変わってないのな」


 音楽準備室のある特別棟から出る頃には、「下調べをしてから行けばよかった」という反省に、宮地に対する腹立たしさが混ざり始めた。「なんで頑張ってる俺達を応援してくれないんだ」と身勝手な怒りまで湧いてくる。

 駄目だ、もの凄く嫌な奴になってる。スポーツ刈りの頭を左右に振り、仕方なく野球部の部室に向かって校舎内を歩いていたら、どこかから聞き覚えのある音がした。

 昨日の夜、テレビで聞いたサックスの音だ。

 その音が思ったほど遠くないと気づいて、大河は近くの階段を上った。すると、目の前の教室に人影があった。

 窓辺に椅子を置き、たった一人でサックスを吹く不破瑛太郎は、テレビで見たままの姿だった。目を閉じ、きっと教室ではない別の場所を思い浮かべて、サックスを吹いている。

 目の前でレモンでも搾られているような、甘酸っぱい香りが漂ってきそうな音で。

 その音が、すーっと消え入るように止まる。楽器から口を離した不破の目が、大河を向いた。そのまま、静かにこちらを指さしてくる。
「野球部の人」

 どうやら、彼は大河を知っているみたいだ。心を決め、大河は教室に足を踏み入れた。

「実は今、音楽準備室に行って来たんだけど」

 正直に、何があったかを話した。大河の話を聞きながら彼は何度も吹き出した。ついには、腹を抱えて笑い始める。

「そりゃあ駄目だ。宮地の地雷踏みまくり」

「俺も勢いに任せて頼みに行って失敗したと思ってる。それに俺、宮地とは仲が悪いんだ」

「どうして?」

「一年の頃、掃除当番を代わってほしくて『吹奏楽部なんだからいいだろ』って頼んだら、めちゃくちゃ怒られた」

 今では、悪かったって思ってるんだ。慌ててそう付け足すと、不破はまた吹き出した。

「宮地、中学の頃に、男なのに吹奏楽部って随分からかわれたらしいから、そういうふうに言われると怒るんだよ。相手が悪かったね」

 言いながら、不破は窓の外に視線をやった。この教室からは野球部のグラウンドがよく見える。音も声も聞こえる。二月までバッテリーを組んでいたキャプテンの北原陽介が、大河に代わってエースピッチャーになった二年の柿本の球を受けているのが、見える。

「野球とコンクールじゃ、スケジュール丸かぶりしてるから。みんなが渋るのも無理ない」

 くるりと大河の方を振り返って、「それで?」と不破は言った。

「俺に、みんなを説得してほしい、ってこと?」

「そういうつもりじゃなくて……昨日、テレビで不破を見たから、声を掛けたくなって」

「ああ、あれね」

 窓から吹き込む風に声を乗せるようにして、「今日だけで二十人くらいから同じこと言われたよ」と不破は笑った。

 けれど、その笑顔がすっと引いて、酷く凪いだ表情になる。

「ねえ、俺だけ参加するのって、アリ?」

 不破が立ち上がり、一歩、大河に歩み寄る。細かなパーツが複雑に入り組んだサックスは、蛍光灯の安っぽい光を上品に反射した。

 千学の夏服であるワイシャツは澄んだ水色をしている。その色と金色のサックスの組み合わせは、夏空と太陽のようで、眩しかった。

「俺だけ、って、野球応援に? 不破だけ?」

 にかっと歯を覗かせて頷いた不破に、大河は息を呑んだ。

「……どうして?」

「だって、甲子園のアルプスで演奏するの、楽しそうじゃん」

 大河の問いに、不破は何てことないという顔でサックスの音を操るキーに触れた。


  * * *


「じゃあ、君と君と、後ろの君とその隣の君」

 補欠部員達を次々と指さし、不破は近くにいた一人にトランペットを手渡した。渡された奴は当然、戸惑う。不破は気にすることなく指名した部員全員にトランペットを配った。

 昼休みの野球部の部室には、ベンチ入りできなかった二十人の一、二年生が集まっている。試合当日はスタンドで応援に回る部員達だ。

「日曜の三回戦のことは気にしないで、来週の四回戦までに、吹けるようになっておいて」

 トランペットを渡された四人が、視線で大河に助けを求めてくる。部外者とはいえ、三年の不破に直接不満は漏らせないのだろう。

「不破、それはつまり……どういうこと?」

 自分自身もトランペットを胸に抱えて、不破が大河を見上げる。

「日曜の三回戦は吹奏楽部のOBに声を掛けて、演奏に必要な人数は確保できた。でも四回戦は平日だから、応援団の中で奏者を工面しないと」

 大河が不破に声を掛けたのは昨日の放課後だ。一体どうやって一晩でOBを確保したのだろう。

「あの、どうして自分達なんでしょうか……」

 不破の目の前にいた二年の小林がそう聞く。

「俺、音楽の成績、マジで酷いんですけど」

「どうせ、真面目に受けてないだろ?」

 不破の目が、トランペットを渡した他の部員へ移る。一人ひとり、まるで射貫くように。

「君等、吹けそうな顔してるから、大丈夫。一週間練習すれば、とりあえず形になるよ」

 唇の端を吊り上げるようにして笑った不破に、大河は一歩後退った。一体どこからその自信は湧いてくるのだろう。そこまで断言されたら、大河も小林達も頷くしかない。

「君等四人と、俺で、トランペット五本。大太鼓一人。これだけいれば何だってできる」

「不破、お前、トランペット吹けるのか?」

「吹けるわけないじゃん」

 俺の専門、サックスだよ? と大河を見て、不破は「俺も今日から練習する」と笑った。

 大河から三回戦の応援について説明し、その間に不破が小林達にトランペットの吹き方を教えて、今日は解散にした。突然楽器を持たされた四人は浮かない顔で去って行ったけれど、不破は正反対の表情をしていた。

「これ、立石が一から作ったの?」

 窓際に置かれた長机に腰掛けて不破が広げているのは、「応援の手引き」だ。応援の諸注意や千学の校歌、各選手の応援歌が書いてある。応援団はこれを頭に叩き込み、保護者や在校生はこの手引きを見ながら応援する。

「まさか。去年まで細々と活動してた応援団が残してくれたやつを参考に作っただけだよ」

 不破が協力してくれることになったから、今日の朝練のあとにベンチ入りメンバーに急遽応援歌を選んでもらった。楽譜は応援部の部室に眠っていたのを発掘してきた。

「なるほど」

 選手別の応援歌が一覧になったページを開いた不破が、ネクタイを肩にかけてトランペットを構える。本当に吹けないのかと聞きたくなるくらい、その手つきは様になっていた。

 背番号順に並んだ応援歌を、不破が適当に一つずつ吹いていく。『ルパン三世のテーマ』『紅』『コンバットマーチ』『宇宙戦艦ヤマト』『アフリカン・シンフォニー』。初めて見たはずの楽譜を、どんどん吹いていく。吹くごとに音が芯を持ち、少しずつ強くなっていく。部室の外に出せ。自分達に相応しいステージを寄こせ。音がそう言っているみたいだ。

「ねえ、二番の北原って、ロッテファンなの?」

 キャプテンであり、正捕手である北原の欄に書かれたロッテの『チャンステーマ1』を指さし、不破がそう聞いてくる。

「いや、ライオンズファン」

「なのにロッテのチャンステーマでいいの?」

「控えめな奴でさ、自分で選ばなかったんだ」

 上級生から順番に好きな曲を選ぶ中、キャプテンの北原は、「俺は余ったやつでいい」と後輩に譲ってしまった。結果、北原の応援歌はロッテの『チャンステーマ1』になった。

 そういえば一年の頃──まだレギュラーにもなれてなかった頃、戯れに「自分の応援歌は何がいいか」という話を北原としたとき、あいつは、何がいいと言っていたんだっけ。

「ふーん、そう」

 応援の手引きを見下ろし、不破は黙り込んだ。二、三度ゆっくりと瞬きをして、再びトランペットに口をつける。息を吸い、腹のあたりが膨らんだ瞬間、部室のドアが開いた。

「悪い、まだ会議してた?」

 現れたのは、話に出ていた北原だった。大河が「もう終わったから、大丈夫」と返すと、遠慮がちに部室に入ってくる。

「朝練のときに、教科書忘れてさ」

 何故か言い訳っぽくそう言い、ロッカーを開ける。そわそわとした後ろ姿がいつもの寡黙で冷静な彼とは違い、大河は首を傾げた。

 果たして教科書は見つかったのか、本当にそのために部室へ来たのか。鞄を再び肩から提げた北原が、どうしてだか、不破を見る。

「応援、わざわざ協力してくれるんだってな。昨日の朝練終わりに聞いて、驚いた」

 忙しいのに悪いな。ありがとう。浅く笑った北原が、不破に向かって礼を言う。どうしてだろう。今、部室の空気が、ほんの少し冷たくなったような気がした。

「俺がやりたかっただけだよ」

 トランペットを膝の上に置き、不破が北原を見上げる。その目は先程までと違い、北原の真意を探るような、深い色をしていた。

 この妙な感じは、何だ。北原がそれ以上何も言わず出て行ってしまい、大河はどういう顔で何を切り出せばいいのかわからない。

「小学校のとき、同じ少年野球チームだった」

 北原が出ていったドアを見つめ、独り言のように不破が呟く。

「え、北原と?」

「別々の小学校だったけど、小六までずっと一緒のチームだった。同じ中学だったけど、俺は吹奏楽部に入っちゃったから、それからほとんど交流ないけどね」

 気を取り直したように大きく息を吸った不破は、再びトランペットを吹き始めた。力強く奏でられるのは、ロッテの『チャンステーマ1』だった。

 不破、お前、野球やってたのか。北原とは仲良かったのか? ていうか、なんであんな微妙な空気なの、お前等。

 聞きたいことはたくさんあるのに、トランペットの音に押されて大河はどれも言葉にできなかった。


  * * *


 一番バッターの応援歌『コンバットマーチ』が始まったら、もう、二回戦までの応援とは明らかに違った。野郎の野太い声と大太鼓のみだった応援に、不破と小林達、吹奏楽部OBの演奏が加わる。総勢十五名のバンドの音は、あっという間にスタンドを華やかにした。

 日曜日だから在校生も保護者もたくさん詰めかけている。これぞ野球応援だ。大河は、いつも以上に張り切って声を出した。叫べば叫ぶだけ、勝利を引き寄せられる気がした。ヒットも好守備も、得点も、自分の声が生み出したんじゃないかと錯覚するくらいに。

 昨年の県大会ベスト4を相手に、千学は六対二で勝利した。

「ホント、助かった。凄かった」
 次の試合に向けてスタンドの観客が入れ替わる中、大河は楽器を持ったまま移動する不破に声を掛けた。不破は曇った表情で、タオルで額の汗を拭いた。

「次はトランペットと大太鼓だけだからなあ。しょぼくなったって思われないといいけど」

 グラウンドを見やり、不破が肩を竦める。大河も「そうだよなあ……」と天を仰いだ。

「四回戦、平日だし。観客も今日より減るだろうし」

 呟いて、もの凄く大事なことを忘れている気がした。球場の外に出て、やっと気づく。

「おいっ、不破……!」

 小林達に「君等の本番は次だからな」と発破を掛ける不破に向かって、大河は叫んだ。

「四回戦、どうやって演奏しに来るんだ?」

 問いの意味を、不破はすぐには理解してくれなかった。

「だって四回戦、平日じゃん。野球部は公欠扱いだけど、不破は学校をサボることに……」

 真夏の太陽を受けてきらきらと光るトランペットを抱えたまま、不破は「ああー」と声を漏らして、明後日の方向を見上げた。そのまま、しばらく動かなくなる。

「……どうしようか?」

 苦笑いをこぼす不破に、大河は頭を抱えた。

「何とかしてみる」と言った不破だったが、どうやら何とかできなかったらしいとわかったのは、翌日の放課後のことだった。


「立石! 匿って!」

 四時半過ぎに、不破が部室に駆け込んできた。グラウンドでは練習が始まっており、大河は部室で昨日の応援の反省点をまとめていたところだった。部室のドアを閉め、不破はサックスを抱えたままその場にへたり込んだ。

「……何が起こった?」

 もの凄く悪い予感がしてそう聞くと、不破はばつが悪そうな顔で頭を掻いた。

「四回戦の応援に駆けつけるべく、顧問の三好先生に公欠を出してくれないかって頼んだ」

「駄目だって言われたのか?」

「いや、それが思いの外すんなりとOKが出て、無事四回戦には行けることになった」

「じゃあ、なんで逃げてきたんだ」

「日曜に吹奏楽部の練習をサボって野球応援に行き、しかも明後日も行こうとしていることが他の部員にばれた」

 むしろ、よく今日までばれなかったものだ。

「それで、みんなに怒られたのか?」

「主に宮地が怒ってる。だから逃げてきた」

 ゲンナリという顔で、不破が窓辺の長机へと移動する。ここ数日、そこが彼の定位置になっていた。

「頼む、ほとぼりが冷めるまで匿ってくれ。俺は大人しく練習してるから」

「まあ、いいけど」

 ここで練習する時点で《大人しく》ではないんじゃないか。案の定、不破がサックスを吹き始めた直後、部室のドアがノックされた。

 大河と不破が息を殺してドアを見つめると、「入りますよ」という声と共に、ドアが開く。

 入ってきたのは、眼鏡を掛けた三十代くらいの男だった。黒いTシャツにジーンズという格好で、手にはビデオカメラを持っている。黒光りするレンズが、ぎろりと大河を捉えた。

「げっ、森崎さんだ」

 不破の声に、森崎さんと呼ばれた男性は「げっ、とは何だ。げっ、とは」と笑った。

「全く。宮地君だけじゃなくて僕まで撒くとは、やってくれるねえ、瑛太郎君」

「だって、宮地がキレたときの森崎さん、獲物を見つけた猛獣の顔してたから」

 一回り以上年上の男を指さし、不破は仏頂面をする。森崎さんとやらはそれを吹き飛ばすように軽快に笑った。

「そりゃあ、これでもドキュメンタリーを作ってる人間だからね。これは逃しちゃ駄目だって思ったんだ」

 不破が溜め息をつき、大河をちらりと見た。

「立石、この人、日東テレビの森崎さん。例のドキュメンタリーのディレクター」

 森崎さんが大河に向かって「突然ごめんなさい」と頭を下げる。大河も椅子から腰を上げ、「こんにちは!」と勢いよく挨拶した。不破が今度は大河のことを森崎さんに紹介する。

「じゃあ、今回の騒動の中心人物ってわけか」

「……そんなに大事になってるんですか?」

「そりゃあ、全日本コンクールを目指す吹奏楽部の部長が、地区大会を前に突然練習をサボって野球応援に行き始めたらね」

 ごくり、と大河は生唾を飲み込んだ。カメラのレンズが自分に向いている。心臓のあたりに、張り詰めたような緊張が走る。不破の奴、なんでこの状況で普通に振る舞えるんだ。

 この前見たドキュメンタリー番組のワンシーンを思い出して、大河は唸った。

「瑛太郎君、そんなに野球好きだったの?」

 森崎さんが不破に聞く。

「君は、コンクールに向かって真っ直ぐに突っ走ってるもんだと思ってたから、正直今回のことは僕も驚いたよ」

「別に、俺はいつだって全日本で金賞獲りたいって思ってますよ。日曜にサボった分、家でめちゃくちゃ練習したんですからね?」

 机の上で足を揺らしながら、不破は答えた。

「野球応援もコンクールのためだし、自分のためだし、寄り道をしてるつもりはないです」

 不破がさらに言葉を続けようとしたとき、落雷みたいな音を立てて部室のドアが開いた。

「やっぱりここにいた!」

 怒り心頭という顔の宮地が、不破、大河、森崎さんと順番に視線をやり、深々と溜め息をつく。その後ろには副部長の徳村もいた。困った顔で笑いながら、大河に会釈してくる。

「瑛太郎、お前、本気で明後日の野球応援に行くつもりか」

 怒鳴り声を必死に押さえつけるようにして、宮地が言う。

「その次もその次も……野球部が甲子園に行くってなったら、甲子園まで応援に行くのか? もし県大会と甲子園の試合が被ったら? 途中で放り出すかもしれないものに協力するなんて、無責任だと思わないか」

 詰問する宮地に、徳村が「まあまあ」とやんわり間に入る。でも、宮地は続けた。

「地区大会直前の大事な時期に部長が野球応援なんてやってて、一、二年がどう感じると思う? 部長なんだから部長らしく……」

 宮地の言葉を、ぎしり、と木材が軋む音が遮った。


 部室に黒い影が差した気がしてそちらに目をやると、不破が長机の上に仁王立ちしていた。その目は凄く静かなのだけれど、深いところで怒りに燃えている。

「俺も自分がやってることを正しいだなんてちーっとも思ってないけど、それを立石の前で『野球応援なんて』って言うのは違うんじゃないのか? それは、真面目に、本気で、仲間を応援してる奴に対する冒涜だ」

 不破の声に怒りは滲んでいない。どちらかというと──ソロパートを高らかに歌い上げるようだった。ドキュメンタリーで観た、誰もいない朝の音楽室でサックスを演奏する彼自身みたいに。

「そんなの、お前に『吹奏楽部なんだからいいだろ』って言った立石と同じだろ」

 変なとばっちりが飛んできて、大河は口をへの字にした。でも、誰も大河を見ない。高いところから自分達を見下ろす不破のことを、みんな、見上げていた。

「まあ、確かに、日曜の練習をサボったことはどう考えても俺が悪い。明後日の四回戦、公欠まで取って行こうとしてるのをどう思われようと、陰口叩かれようと、俺が悪い。土下座しろっていうなら土下座でも何でもする。でも、宮地は応援のせいで俺の演奏が下手になったと思うか? 手を抜いてると思うか? 俺は、野球部が勝つ限り演奏しに行くぞ。そんでもって全日本にも行くぞ。ゴールド金賞獲りにな!」

 ぎしり。長机が鳴って、揺れる。微かな振動に、彼のサックスが光った。窓から差す夏の日差しに、呼吸でもするように、きらりと。

「大体、俺達の演奏を求めている人がいるのに、それに応えもしないで何がコンクールだ。そんな音楽のどこが美しい」

 《美しい》という言葉に、大河の心臓がどきりと跳ねた。そんな言葉を恥ずかしげもなく吐ける奴、こいつ以外にどこにいるんだろう。

「そういうわけだから」

 宮地に、そして大河にそう言って、「ははっ!」と笑って、不破は背後の窓から外へ飛び降りた。「じゃ!」と手を振って、そのまま逃亡する。

「コラーっ、えーたろー! 逃げるなー!」

 窓に駆け寄った宮地が叫ぶ。そのまま、「呆れた!」と長机の上に突っ伏した。

「あのバカ! 吹奏楽バカっ!」

 机の天板を掌で数回、ばん、ばん、と叩いた宮地は、そのまま溜め息をつく。地の果てまで轟きそうな、盛大な溜め息を。

「やってくれたなあ、立石」

 顔を上げた宮地が、大河を見た。

「よくも、吹奏楽部を動かす一番手っ取り早い方法を見つけたもんだ」

 憤った声とは裏腹に、宮地の顔はそこまで怒っていなかった。むしろ、笑いを噛み殺しているようにさえ見えた。

「それって……宮地達もスタンドで演奏してくれるってこと?」
 恐る恐る、そう聞く。宮地は「今まで何聞いてたの」という顔で、眉間に皺を寄せた。背後では徳村が応援の手引きを広げ、「三日で何とかなるかなあ?」なんて呟いている。

「瑛太郎を動かしたってことは、そういうことなんだよ」

 大河に歩み寄った宮地が、腕を組んで唇を尖らせる。

「野球部だって、どんなピンチでもエースが諦めなければみんな頑張れるだろ? エースが必死に練習してたら、『俺達も練習しなきゃ』って思うだろ? 瑛太郎は俺達にとってのエースピッチャーなの。どんなにコンディションの悪い日だって、あいつが笑ってステージに出ていくなら、俺達は大丈夫なんだ」

 一言一言、大河に叩きつけるようにして。

「瑛太郎がやるなら、やりたくなる。瑛太郎ができるって言うなら、できる気がしてくる。だから、やってやるよ」

 大河からぷいっと目を逸らし、宮地は応援の手引きを引っ掴んだ。「これのコピー、五十部作るぞ」と徳村に言って、部室を出て行く。

 まるで激しい嵐が少しずつ過ぎ去っていくようで、大河は慌てて部室を飛び出した。

「宮地!」

 大河の声に、宮地は振り返ってくれた。

「この間と、あと一年のときのこと、悪かった。凄く反省してる」

 がばっと頭を下げて、もう一度息を吸う。

「演奏、楽しみにしてる。よろしくお願いします!」

 声を張ると、「ああ、よろしくな」という、素っ気ないようなそうでもないような返事が返ってきて、大河は思わず頬を綻ばせた。

 そんな自分の横顔を、森崎さんの構えたカメラがしっかりと映していた。


  * * *


 聞き慣れた千学の校歌なのに、初めて聴く曲みたいだった。深くて重くて強い音が連なって、一つのメロディになって、球場を包んでしまう。照りつける太陽も、すでにだらだらと額や首筋を濡らす汗も、一瞬、忘れさせる。

 結局、吹奏楽部が応援に参加してくれるのは準々決勝からということになった。四回戦と五回戦は日程か近すぎて、準備や手続きが間に合わなかったらしい。二つの試合は、不破が率いる小林達演奏隊が頑張ってくれた。「吹けそうな顔してる」という不破の判断は、間違っていなかった。

 しかも、今日は準々決勝だ。平日にもかかわらず、スタンドには今まで以上にたくさんの在校生、保護者、OBが駆けつけてくれた。やっと、大河が二回戦後に思い描いた応援の形ができあがった。

「凄いでしょ」

 対戦校とのエール交換が終わり、不破が得意げな顔で大河の隣に来た。不破も今日は専門であるサックスを吹けてご満悦な様子だ。
「ああ、そうだな」

「うちの吹奏楽部、凄いんだよ。何せ全日本を目指してるバンドだからね」

「それを言うなら、うちのチームだって、甲子園を目指してるチームだ」

 清々しい気分のはずなのに、ざらりと、砂を噛んだような感覚がした。舌先に痛みが走って、口の中が不快感でいっぱいになる。

 無意識に、右肘に手をやっていたことに気づいた。それを、不破がじっと見ていたのも。

「あと三つ勝ったら甲子園なんだ。気合い入れて応援しよう」

 誰にともなく言って自分の頬を両手で叩く。たった今感じた痛みと不快感を、振り払う。

 不破は、もう隣にいなかった。吹奏楽部の前に立ち、抱えたサックスをこれでもかというくらいきらきらとさせて、こう言った。

「よーしみんな、共学の連中に男子校の意地を見せてやろう」

 反対側のスタンドにいる対戦校の応援席を不破が指さすと、バンドからは野太い喚声が上がる。「共学に負けられるか」とか「チアリーダー羨ましい」とか。そんな様子を、森崎さんがカメラでしっかりと押さえていた。

「俺が勝手に始めたのに、一緒に来てくれてありがとうな」

 部員達のそんな様子を誰よりも笑顔で見上げていた不破が、そう言って、大きく息を吸う。胸が上下するのに合わせて、サックスがぎらりと光った。野心に染まった、黄金色に。

「──愛してるよ」

 その言葉は、風にのってスタンド全体に広がる。美しいとか愛しているとか、綺麗だけど恥ずかしくて現実感のない言葉を、彼は平然と口にする。だから吹奏楽部の連中は彼に巻き込まれて、ついていくのかもしれない。

 ずきりと、胸に痛みが走った。振り払うために、大河は応援席に向かって「気合い入れていくぞ!」と声を掛けた。

 試合開始のサイレンが、聞こえてくる。


 千学は準々決勝も勝った。

 その翌々日に行われた準決勝にも、辛うじて勝利した。


  * * *


「本当に決勝まで来るとは」

 感慨深いという顔で、不破が向かいの席でトーナメント表を眺めている。

「吹奏楽もさあ、埼玉って超激戦区なんだけど、野球も凄いよな」

「埼玉って、そんなに吹奏楽強いの?」

「そりゃあね。西関東大会から全日本に進む高校が、全部埼玉代表になっちゃうくらい」

「お前等、そんな中、全日本目指してるの?」

 大河の問いに、当然だという顔で不破が頷く。彼等も、野球部と同じくらい厳しい大会にこれから臨むはずなのに、不破が言うと「なんだかんだでクリアしてしまうんだろう」という気がするから、不思議だ。

「野球部も初甲子園、吹奏楽部も初全日本、なんてなったら千学もお祭り騒ぎだろうな」

 不破の言葉に、頷こうとして、胸がじわりと痛んだ。どうしてだろう。どうして、嬉しいし、期待感もどんどん高まっているというのに、どうして、こんなに痛いんだ。

 目を伏せて考えを巡らせていたら、不破がテーブルに頬杖をついて、こちらをじっと見上げていた。黒い瞳が、夜明け前の空のような深い青色を帯びて、大河の心を探ってくる。

「立石、どうして浮かない顔してるの」

 ついに、そうやって言葉にされてしまう。

「決勝戦も、甲子園も、嬉しくないの?」

 必要最低限の言葉で象られた疑問は純度が高くて、大河の胸を強く強く抉ってくる。

「嬉しいに決まってるだろ。甲子園だぞ?」

 自分はマウンドには立てないけどな。耳の奥で、そんな声が聞こえる。お前にできるのはスタンドから声援を送るだけだ。ボールに触れることもできず、バットを振ることもできない。声を送るだけだ。

「そっか、なら、いいんだけど」

 表情を変えることなく、不破は応援の手引きに目を通し始める。今日の準決勝も、観客の数は凄いものだった。明日はもっと増えるだろう。応援をどれだけスムーズに行えるか。ちゃんと準備をして、今日出た反省点の対策も考えておきたい。そう思ってわざわざ球場から学校に戻って来たけれど、大河はそれを後悔していた。

 そのとき、部室のドアがノックされ、大河ははっと顔を上げた。

「立石、ちょっといいか?」

 ドアの隙間から、北原が顔を出す。

「ミーティングの終わりに、お前からもみんなに一言もらいたいんだけど」

 そう言われたら、行くしかない。不破に断りを入れ、大河は部室を出た。球場から学校に戻って軽い練習とミーティングをしていた部員達が、グラウンドにすでに集合している。

 練習着を来た部員達の輪に大河も混ざる。水色のワイシャツを着た自分は酷く浮いていて、余所者みたいだった。

 北原が前に立つと、全員が姿勢を正す。

「明日の決勝の前に、みんなに改めて言っておきたいことがある」

 北原が、キャプテンらしい凛とした声でそう言って、周囲を見回した。

「俺達が決勝まで来られたのは、努力してきたからだ。でも、ベンチ入りできなかった部員や、怪我でプレーできなくなった部員もいる。悔しい思いを噛み締めながら、毎日俺達をサポートしてくれたり、応援という形で支えてくれたりした。そのことにしっかり感謝して、明日の試合に臨むこと」

 ベンチ入りメンバーから大きな声が上がる。それが静まるのを待って、北原が大河を見た。

「それじゃあ、応援団の指揮を執ってくれている立石から、最後に一言もらおうと思う」

 促され、大河は駆け足でみんなの前に出た。視線が自分に集まる。「えーと」と言葉を探しながら、大河は両手を後ろで組んだ。

「俺が怪我なんてしたせいで、いろんな人に迷惑を掛けました。本当に申し訳ないと思ってます」

 迷惑? 申し訳ない? 違う、一番辛いのは、俺だ。俺だった。

「それだけじゃなくて、プレーできないことに苛立って、上手くみんなをサポートできなかったことも、今は後悔しています」

 後悔してないわけじゃない。でも、仕方がなかった。あの状況ですんなり野球も甲子園も諦められるなんて、そんなの嘘だ。

「明日も、もちろん甲子園でも、応援という形で、みんなの力になれるように頑張ります」

 どうして、俺はそっち側じゃない。ユニフォームを着てプレーする側じゃない。

 深々と頭を下げると、激しい拍手が湧き起こった。爆竹が弾けるような音。その音が、大河の本心を掻き消していく。

「たていしーっ!」

 突然、背後から声が飛んできた。見なくてもわかる。この声は不破だ。

「凄いトラブルが発生した! 助けて!」

 振り返ると、不破は思ったより近くにいた。グラウンドと校庭を区切る縁石の上で、こちらに手を振っている。北原に「悪い、先行くわ」と断りを入れて、そちらに駆けていった。

 物騒なことを言った割に、不破の表情は怖いくらい冷めていた。大河の顔を見て、大真面目な顔で「ここじゃ話せない」なんて言って、部室へ戻っていく。

 でも、不破は部室に戻ってもトラブルとやらが何なのか教えてくれなかった。早めの解散となった部員達が戻って来ても、話さない。何人かが「大丈夫なの?」と声を掛けてきたけれど、「大丈夫」と言う他なかった。

 部室の鍵閉め当番である一年生から、「俺達が閉めていくからいいよ」と鍵を預かった頃には、トラブルなんて何も起こってないんだと、大河は気づいていた。

「なあ」

 誰もいない部室で、大河は不破を見る。

「もしかして、助けてくれたりしたの?」

 とっくに暗記しているはずの『コンバットマーチ』の楽譜を睨みつけていた不破が、唇をねじ曲げたまま顔を上げる。

「早く戻って来たいんじゃないかって思って、お節介を焼いただけだよ」

「格好いいことしてくれるよ。テレビに映してもらえばよかったのに」

 不破の頬が、ぴくりと動く。このまま好きなだけ悪態をついたら、喧嘩になるだろう。そして……どうなるだろう。

 気がついたら、胸に手をやっていた。痛みは、ない。

「ありがとな」

 無理矢理、感謝の言葉を捻り出す。わかってる。あのままあそこにいたら、もしかしたら俺は、北原や、他の部員に向かって、悪態をついてしまったかもしれない。

 虚を突かれたような顔をして、不破が大河をじっと見つめる。その顔が面白くて、堪らず吹き出してしまった。

「不破のおかげで、また嫌な先輩にならなくて済んだよ」

「また、って、前に嫌な先輩だったときがあるの?」

「あるんだな、それが」

 笑ったら、嘲笑みたいになってしまった。

「不破、俺が何で野球やめたか知ってる?」

「肘壊したんでしょ。そりゃあ同級生だから、噂くらい回ってくるよ」

 自分の肘を、大河は改めて見下ろした。窓からの夕日に照らされて、日焼けした肌は燃えるように赤かった。

「肘壊して、投手は無理だって医者に言われたの。どーしても野球は続けたかったし、甲子園にも出たかったから、打者としてプレーできないかと思ったんだ。でも、打撃の衝撃で肘が痛むんだよ。ついにはドクターストップがかかっちゃった。『野球は諦めろ』って」

 そのときのことは、多分、ショックが多すぎて覚えていない。母がわんわん泣いていたのは覚えているのに、自分がどういう反応をしたのかは記憶にない。怖いくらいに。

「それでも練習には顔出すわけ。声出ししたりして、少しでも何かやろうとしたの。でも、やっぱり自分でプレーしたいじゃん? 俺がつけてたエースナンバー、二年がつけてんだもん。イライラして、後輩に八つ当たりしちゃったんだよ。毎日、毎日」

 ドクターストップのかかった五月の連休明けから、六月の終わりまで、ずっとそうだった。練習中に部員の粗を探して嫌みを言い、時には怒鳴りつけた。そういう先輩が、大嫌いだったはずなのに。部活を引退したあとに練習に顔を出して、文句ばかり言って帰って行く連中が、大嫌いだったはずなのに。

「そうやって勝手に当たり散らしてたら、七月の頭に、北原にぶち切れられた」

 ストレスを解消したいなら別の場所でしろ。練習に悪影響しか与えてないって、わからないほど馬鹿じゃないだろ。

 大河にそう言った北原の顔は、未だに覚えている。冷静沈着な北原が、顔を真っ赤にして、淡々と怒っていた。二、三日、練習に顔を出せなくなった。

 でも、三年の夏を何もしないで終えるなんてできなくて、「何かしないと」と思った。何か、何か……練習を見守るのではなくて、もっと自分で動けることをしないと駄目だ、と。

 だらだらと長ったらしい、しみったれた話を、不破は静かに聞いてくれた。必要以上に言葉を発さず、ただ静かに。

「だから、野球応援だったんだな」

 それ以上何も言わず、不破が部室を見回す。一点で視線を止めて、立ち上がった。スチール製の棚の前に屈み込んだ彼が取り出したのは、予備のグローブと、ボールだった。

「立石、キャッチボールはできるの?」

「それくらいなら」

「じゃあ、久々にやる?」

 大河の目の前に、不破がグローブを差し出して来る。そういえば、小学生の頃、こいつは野球をやっていたんだった。しかも、北原と同じ野球チームで。

 果たしてそれは、偶然なのか。グローブを受け取って左手に嵌めながら、大河は考えた。

「不破、ボール投げて平気なの? 指とか怪我したら、サックス吹けないだろ」

 明日の決勝が終わったら、彼は二日後にコンクールが控えている。突き指でもしたら、不破も大河も宮地にボコボコにされるんじゃないだろうか。

「そんなこと言ってたら、自転車通学もできないよ」

 笑って、不破は部室を出て行く。大河もあとに続くと、グローブを嵌めた彼が「うわ、久しぶり」と夕日の下で口元を緩めた。

「不破、お前、北原と何かあったのか?」

「前言わなかった? 一緒の野球チームだったの。小二から小六までの四年間」

 不破が緩くボールを投げてくる。受け取って、同じくらいの力で投げ返す。

「ポジションは?」

「ショート」

 言葉を交わしながらのキャッチボールは、不思議と会話が進む。ボールと一緒に言葉を投げ、相手の言葉と一緒に受け取る。

「なんでやめちゃったんだよ、野球」

 千学で、不破と北原と大河の三人で野球をやっている未来があったかもしれない。その世界では、俺は肘を故障しなかっただろうか。

 軽快な音と共にボールをキャッチした不破は、困ったように肩を竦めた。

「楽しくやってたんだけどさ、北原ほど熱中できなかったんだよ、俺」

 野球にさ。そう言って不破が投げてきたボールは、先程より少しだけ力がこもっていた。

「だから、中学で野球部に入るのは違うかもなあって、小六の夏頃からずっと思ってたの」

「それで、吹奏楽?」

「そういうこと」

 不破から返って来るボールが、さらに強く、速くなる。釣られて、大河も強めにボールを投げた。そのボールをキャッチした不破が、そのまま動きを止める。

「北原に何も相談しないで決めちゃったんだよなあ、俺」

 寂しそうに、困ったように、不破は笑う。

「小学校は別々だったけど、仲良かったんだ、結構。でも、北原は俺が野球部に入るもんだと思ってたみたいだから、『吹奏楽部に入ろうと思ってるんだけど』なんて言えなくてさ」

 吹奏楽部に入部届を提出し、北原に「吹奏楽部に入ることにした」とだけ伝えた。北原は、「そうか」とだけ答えた。クラスが違い、部活が違えば、自然と一緒にいる時間が減る。気がついたら、喧嘩をしたわけでもないのに北原とは微妙な関係になっていた。

 不破のほろ苦い思い出話に、以前部室で感じた不破と北原の妙な違和感の正体はこれだったのかと、合点がいった。

「それを、ずるずると高校まで引き摺ってるってこと?」

「簡単に言ってくれるなあ。時間がたてばたつほど蒸し返せないんだよ。どんな顔して話せばいいのかもわかんないし」

 不破からのボールが綺麗なアーチを描き、大河のグローブに収まる。不破は野球が上手だったんだろうなと思った。ボールを投げるモーションが軽やかで、受けていて心地がいい。北原が「不破は野球部に入るはずだ」と思い込んでいたのも、何だかわかる気がする。

 あまり口数の多くない北原が、不破に言いたいことを言えなかったのも。聞きたいことも聞けなかったのも。

「吹奏楽部がドキュメンタリー番組に密着されるようになっただろ? あれの第一回の放送を見て、自分が答えたインタビューが流されてるのを見てさ。ああ、俺、北原にこれを言えたらよかったんだって気づいたんだよね」

 朝早くから練習していて、大変じゃないのか? その問いに、テレビ画面の中の不破は『楽しいから』と答えた。

「俺さあ、野球が嫌いでやめたわけじゃないんだ。もちろん、北原が嫌いになったわけでもない。ただ、もっと愛おしものができたってだけだ。それを、あのときは北原にどう伝えればいいのかわからなかった」

 《美しい》《愛してる》《愛おしい》。そんな言葉を、彼は易々と口にする。野球少年は吹奏楽部の部長になって、不破瑛太郎はそういう人間に成長したのだろう。

 大河から受け取ったボールをじっと見下ろして、不破は笑顔を見せた。白い歯を覗かせて、穏やかに笑う。

「だから、北原とのもやもやを解消するのは、今しかない」

「それが、コンクール前なのに野球応援がやりたかった本当の理由?」

 大きく頷いて、不破がボールを投げてくる。

「俺が選んだもの、北原にちゃんと見てほしいんだろうな、きっと」

 ははっ! という笑い声と共に、ボールが大河のグローブに収まる。

「今更何だって北原に思われるだけかもしれないけどな」

 ずっと晴れやかだった不破の声に、影が差す。彼との付き合いなんて二週間弱しかないのに、何故か、わかった。

「大丈夫だよ」

 咄嗟に、そんな言葉が口をついて出る。脳裏に自分のボールを受ける北原が思い浮かんだ。キャッチャーマスクの向こうで、彼が確かに笑顔を見せるのも。

「俺に言われても説得力ないだろうけど、大丈夫だよ」

 ボールを握り直し、不破へと投げる。受け取った不破は、グローブを掲げたまま、しばらく呆けた顔をしていた。大河の顔をじっと見つめ、微笑んでいた口元が、真一文字になる。

「そう思う?」

 表情を変えずに小首を傾げた不破に、大河は大きく頷いた。

「俺、高校入ってからずっと北原とバッテリー組んでたから。だから、大丈夫な気がする」

 大河がそう言うと、不破はにかっと笑った。

「そっか」

 大河にボールを投げ返し、「ありがとう」と、彼は言った。

「清々しい気持ちで、コンクールに出られそうだ」

 今度は、大河がボールを見下ろす番だった。土で汚れたボールを見つめ、胸の奥に封印して──したつもりになって、でもときどきこぼれ落ちてしまう本音を、両手で掬い上げる。

「悪い、不破。俺、一つ嘘ついてた」

「何が?」

「本当は悔しかったんだ」

 再び首を傾げた彼に、大河は肩を竦める。

「二回戦、俺のいないチームが八対〇で勝って、凄く悔しかった。俺がいなくても余裕で勝ちやがって、って。応援を仕切るだけじゃなくて、何かやってやらないと気が済まなかった。そのときたまたまお前が出てるドキュメンタリーを見て、吹奏楽部に演奏してもらおうって思った」

 プレーできないイライラを後輩にぶつけていたときと、何も変わらない。苛立ちをわかりやすい言動に表すのではなく、「みんなを応援している」という爽やかで輝かしいものにすり替えただけ。

「準々決勝も、今日の準決勝も、勝ったのに、凄く悔しかったんだ。もしかしたら俺は明日、応援しながら、『頑張れ』って言いながら、心の中で『負けちまえ』って思うかもしれない」

 じわりと、視界の端が歪んだ。涙ににじんだ風景の真ん中で、不破の顔だけがはっきりと見えた。
グローブを構えて、彼は笑っていた。

「立石は偉いと思うよ」

 困ったように、笑っていた。

「野球を諦めなきゃいけなくなったのに、仲間を応援してるんだから。ちゃんと自分で立ち上がって、自分の機嫌取ってるんだから」

「諦め切れてなんかない。応援するのだって精一杯だ。気がついたらヤジ飛ばしちまうんじゃないかってくらい、いっぱいいっぱいだ」

 きっと、自分のやっている応援は、凄く不誠実だ。他でもない自分のために、チームメイトを応援しているんだから。

「でも、立石の声は綺麗な色で光ってるよ。きらきらの金色。ちゃんとチームメイトを応援してる声だ」

 俺、そういうのわかるから。得意げに自分の顔を指さす不破に、ふと、勝手なイメージが湧いた。

 中学生の彼が、北原の背中を見ている。「このまま野球部に入っちゃっていいのかなあ」と、困った顔で。そこに、どこかから蛍のような金色の光が飛んでくる。それを目で追った先にあったのは、吹奏楽だった。ぴかぴかに光る楽器と、色とりどりの音だった。

 中学一年生の不破瑛太郎は、一瞬だけ北原を見て、名残惜しそうに金色の光に向かって歩いて行く。徐々に歩く速度を上げ、ついには走り出す。

「……いや、流れ星って……落ちてるじゃん、思いっ切り」

 引っ込む気配のない涙を必死に瞼で押さえつけながら、苦し紛れにそう言った。

 でも、不破の言葉は容赦がなかった。

「落ちてるって思ってるのは下から見てる連中だけだろ。向こうからしたら、必死に燃えてるだけだよ」

 ボールをグローブに戻し、大きく鼻を啜って、大河はその場に屈み込んだ。

 喉の奥を震わせ、奥歯を噛み締めた。足下にぽたぽたと黒い染みができていく。夕日に照らされて、金色に光る。


  * * *


 バットから響く快音が、こんなに怖いなんて。その音が聞こえるたびに千学の応援席からは「ひっ」という強ばった声が飛んだ。

 全国高等学校野球選手権大会埼玉大会決勝は、千学が六回まで五対一でリードしていた。初回に三得点という好調な滑り出しで、柿本のピッチングも、打線も勢いにのった。

 なのに七回の表、柿本の投球がやや乱れた。北原がボールを後ろに逸らしてしまい、その間に盗塁を許した。そこから悪い方に転がり始め、二塁打と本塁打であっという間に三点を返された。裏の攻撃で千学は三者凡退。八回の表に、さらに一点の追加点を許した。五対五の同点で、九回に突入してしまった。

 こうなると、流れは完全に向こうだ。

 守備についている間は楽器を演奏しての応援はできない。大河達にできるのは、声援を送ることだけ。だから、相手チームの打者の動きにばかり目が行ってしまう。

「守備って、嫌なもんだな」

 演奏できないじれったさに耐えきれなくなったのか、不破がサックスを抱えたまま駆け寄ってくる。フェンスにしがみつくようにして、遠くにあるバッターボックスを凝視した。

「そうだな。攻撃のときは『とにもかくにも行っちまえ!』って感じだけと、守備のときはミス一つで失点しそうで、ハラハラする」

 プレーしてるときと応援してるときとじゃ、こんなにも違うのか。フェンスに掛けた両手にぎゅっと力を込めながら、大河は唸った。

 直後、快音が球場に響いた。隣で不破が「ぎゃっ!」と悲鳴を上げる。向かいのスタンドから歓声が起こる。打者の放った一打は内野を越え、レフトとセンターの間に綺麗に落ちた。相手校の吹奏楽部の演奏が大きくなって、チアリーダーの真っ赤なポンポンが跳ねる。

 二塁ランナーが三塁を蹴り、ホームへ戻ってくる。センターがホームの北原へ送球したけれど、タッチの差で間に合わなかった。

 うわあ、逆転された。背後で誰かが言う。わざわざ言わなくたってみんなわかってんだよ馬鹿! そう、声を荒らげそうになる。

 次の打者を何とか打ち取って、九回裏の千学の攻撃へと入る。ベンチへと戻っていく千学ナインの背中を見送りながら、大河はバックスクリーンを見つめた。打席は、四番の寺山から。五番には北原もいるが、このまま下位打線に回ってしまったら、ますます苦しい。

 不破は何も言わず、強ばった表情で自分の立ち位置へと戻っていく。寺山の応援歌『紅』を演奏するために。そしてそのあと、ロッテの『チャンステーマ1』を演奏するために。

 フェンスに額を押しつけて、唇を噛んだ。

「あいつ、ロッテファンじゃねーし……」

 こんなことなら、応援歌を選んでもらうとき、無理矢理にでも北原に最初に選ばせてやればよかった。こんなとき、あいつを勇気づけられる曲を。見せかけでもいいから、あいつに勝利を感じさせられる曲を。

 寺山がセンター前ヒットで何とか一塁に出る。寺山が帰れば同点、北原が帰れば、逆転。

 『頑張れ』って言いながら、心の中で『負けちまえ』って思うかもしれない。昨日、不破に言ったことを思い出す。そんな心の余裕、あるわけがない。この状況で勝利を願えないほど、俺の心は強くない。頼む、勝ってくれ勝ってくれ勝ってくれ。それ以外に余計な嫉妬も羨望も、描いていられない。

 そのとき、ふと、いつか北原と話したことを思い出した。真っ青な夏空から大河に、降り注いだ。

 相手チームが守備のタイムを取ったのを見て、大河は声を張り上げた。

「不破っ!」

 バンドの中央で次の演奏に備えていた不破に、頭を下げる。
「吹いてほしい曲がある!」

 不破は驚いた顔をしたけれど、何も言わずに楽器を抱えたまま大河の前までやって来た。その両肩を掴んで、大河は叫んだ。

「『ジョックロック』! 智弁和歌山が応援で演奏するやつ! あれ吹いてくれよ。北原、自分の応援歌が『ジョックロック』だったらいいなって、一年の頃言ってたんだよ!」

『ジョックロック』ってここぞってときに演奏するチャンステーマじゃん、贅沢だな。そう自分は言った。でも、そんな欲張りなことを言う北原を、大河はこの三年間その一度しか見たことがない。

「……ごめん」

 か細い声で、不破が言う。本当に申し訳ない、という顔で眉を寄せる。

「俺、『ジョックロック』のメロディ、ぼんやりとしか覚えてない」

 ああ、駄目か。肩を落としそうになったら、不破が大河のことを睨め付けるように、視線を強くした。

「だから、何でもいいから聴かせて。すぐに!」

 鋭利に底光りする眼差しが、大河の体を突き動かす。

「お、おう!」

 応援席の一角にあった自分の鞄を引っ掴んで、携帯を出した。ウォークマンのイヤホンを引っこ抜いて、不破の耳に突っ込む。携帯で動画サイトを検索したら、智弁和歌山高校の演奏する『ジョックロック』が、あった。

「そういや、こんなんだったな……」

 再生ボタンを押してすぐ、不破はそう言って小さく笑った。そのまま、怖いくらい無表情になる。瞬きもしなくなる。

 守備のタイムが終わったようだ。球場にアナウンスが入る。北原の名前が、コールされる。応援も演奏も始まる気配がない千学の応援席は、少しずつ騒がしくなっていった。でも、不破はぴくりとも動かない。額から伝った大粒の汗が、彼の見開かれた目に入る。それでも不破は動かない。

 楽譜があるとか、不破自身が覚えているならまだしも、うろ覚えの曲を演奏してくれというのは無茶だったかもしれない。「大丈夫か?」と声を掛けようとしたとき、彼の右の鼻の穴から、赤い筋がすーっと唇に向かって垂れていった。唇を越えて、顎から彼のワイシャツへ落ちていく。

「ふ、不破……大丈夫かっ?」

 彼の脳味噌の許容量を超えてしまったんだろうか。体がバグでも起こしたんだろうか。それとも熱中症の前触れだろうか。とにかくもうやめさせようと彼の肩を叩いたら、不破は自分の耳からイヤホンを引き抜いた。

「覚えた!」

 真剣な顔で鼻血を一度だけ腕で拭って、応援席の端まで走っていく。演奏が許可されたスペースの中で、一番打席に近いところへ。少しでも、北原の近くへ。

 フェンスに体を擦りつけるようにして、不破はサックスを構えた。

 直後、投手が投げたボールに、北原のバットが振れた。鈍い音と共に、ファールボールがバックネットに飛んでいく。

「頼むから、届いてくれよなあ」

 自分のサックスにそう呟いて、息を吹き入れて、二、三度音を出す。

 この屋根のない大きな球場で、二万人以上が収容できるこの場所で、きっと不破の演奏するサックスの音はとてつもなく小さい。不破がどんなにいい奏者だろうと、ステージが広すぎる。余計な音が多すぎる。

 握り締めていたメガホンを、大河はバッターボックスに向けた。

「きたはらああああああぁっー!」

 立石大河という人間の体から出せる最大の声で、奴の名前を呼ぶ。喉の奥に痛みが走る。こんなの知るか。肘を壊したときに比べたら、痛いうちに入らない。

 不破が深く深く、地球を覆い隠してしまうくらい大きく、息を吸ったのがわかった。

 吸い込んだ息が、黄金色のサックスに注ぎ込まれる。きっと、不破の北原に対する思いが、願いや祈りや思い出が、痛いくらいに凝縮されて。

 不破がサックス一本で奏でる『ジョックロック』は、今まで聞いたことのない音をしていた。このままサックスがばらばらに砕けてしまうんじゃないかというくらいの大きな音で、勝利を呼び込む魔曲が奏でられる。

 演奏に合わせて、大河は再びメガホンを口元に持っていった。「かっ飛ばせー! きーたはら!」と声を上げる。大丈夫、この音も、声も、北原には届いている。誰の音なのか、誰の声なのか、あいつにはちゃんと伝わってる。

 北原は何度もバットを振った。ファールで粘った。振るたびに、「かっ飛ばせー!」という声の数は多くなっていく。気がつけば、太鼓の音や、他の管楽器の音まで混じるようになっていた。

 どれだけ声を上げても、演奏しても、大河達は試合に手出しできない。できないからこそ、こぼれ落ちた希望を拾うのが自分達の役目だ。声援や演奏で砕けた希望を拾う。「駄目かもしれない」という、誰の心にも生まれてしまう弱さを掻き消す。まだここに希望はあるのだと、彼等が思えるように。

 きっと今、北原の目にも、見えている。

 ──そのときだった。

 相手投手の投げたボールを、北原のバットが捉えた。綺麗に、真ん中で。空を切り裂くような鋭く輝かしい音がして、真っ白な光の線が、グラウンドを駆け抜けていく。

 どこまでも、どこまでも、夏空を貫くように。

 背後から聞こえた歓声に、大河は我に返った。不破が飛びついてくる。肩を組んでくる。ぴょんぴょんと跳ねながら何か言っている不破に、北原の打ったボールがフェンスを越えたことを理解した。

「……ホームラン」

 一塁にいた寺山が三塁を回り、ホームベースを踏む。そして、北原がガッツポーズをしながらホームに戻ってきた。
 彼のスパイクがホームベースに触れた瞬間、太陽のじりじりとした暑さや、喜び合う人々の声が、遠くなった。自分だけ別の世界に飛んできてしまったみたいだった。

 気がついたら、フェンス際に屈み込んで啜り泣いていた。昨日と同じだなと、笑い出したくなる。涙の精分は一体何だろうか。千学が甲子園に初出場する嬉しさが、多分七割くらい。残りの三割にきっと、悔しさや悲しみが詰まっている。羨ましい、という気持ちも。隠しようがない。だって、本当にそうなのだから。悔しさや痛みは消えないのだから。

 でも、やっぱり、嬉しいという気持ちがあるのも《本当》なのだ。

「立石」

 不破に名前を呼ばれて顔を上げると、試合を終えた選手達がこちらに向かって駆けてくるところだった。顔を両腕でぐりぐりと拭って、大河は立ち上がった。

 応援団の前に整列して一礼した選手達に、いろんな声が飛ぶ。「おめでとう」とか「よくやった」とか。

 北原が、こちらを見ていた。

「北原っ!」

 不破が澄んだ声でそう言って、首から提げていたサックスを高く掲げた。真夏の太陽に照らされたサックスを、北原が眩しそうな顔で見上げたのがわかった。

 北原に何か声を掛けようか迷って、大河はその全てを飲み込んだ。今日で試合は終わりじゃない。千学は甲子園出場を決めたんだ。ここで「ありがとう」なんて言ったら、今日で最後みたいじゃないか。

「北原」

 握り拳を作って、高く掲げて見せた。今日は、これだけでいい。これだけで充分伝わるはずだ。北原も何も言わず、頷いて、チームメイトと共にベンチの方へ戻っていった。

「なあ不破」

 疲れた、という顔でフェンスに寄りかかる不破を、大河は見下ろした。

「ありがとうな」

「礼を言うのはこっち」

 グラウンドから吹いてきた風に気持ちよさそうに目を閉じながら、不破は言った。

「こっちも意地でも行かなきゃ、全日本コンクール」

 鼻血のこびりついた顔で笑う不破に、大河も釣られて肩を揺らした。

「楽しみにしてる」

 でも、甲子園の応援も頼んだぞ。そう付け足すと、不破は「当たり前じゃん」と大河の肩を叩いてきた。

「『ジョックロック』、今度は大迫力のやつ、演奏してやるよ」

初出:『小説現代』2017年7月号

* * *

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