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『三国志』最強の武将は誰か!? 何進、皇甫嵩、張遼、高順らの運命の分かれ道。

『三国志』(文藝春秋)全12巻で知られる、作家の宮城谷昌光さんが、9月11日(土)にオンラインで「『三国志』再発見!講義」を行った。約1時間半の講義は、『三国志』を知るための基本的な知識からはじまり、やがて知られざる名将・猛将たちの話へと広がっていった。

劉備を中心に『三国志演義』が書かれた理由

 もともと日本人に馴染みが深いのは、羅貫中による小説『三国志演義』である。

「これはもともと講談や演劇として、長い間、中国国内で民衆に支持されていたお話が、元から明の時代に生きた羅貫中の手によって、蜀国の劉備を軸にしてまとめられたものです。当時の中国は、漢民族からすると異民族に支配されていた時代でした。そのため漢民族には、自分たちの王朝の復活を願う気持ちが強かった。そこで漢王朝の後継として劉備が建てた蜀漢を中心とし、その敵としての曹操の魏や孫権の呉を描くことで、漢vs.元を想起させる二重構造を、羅貫中は演出したのではないかと思います。だから、どうしても劉備の配下の関羽や張飛、諸葛亮らが活躍する仕立てになってきます」

宮城谷昌光さん

 劉備が善で、曹操や孫権らは悪であるという、はっきりとした勧善懲悪の仕立てになっているのが、小説『三国志演義』であり、それは読み物として確かに面白い。宮城谷さんも「全8巻の岩波文庫版を、何度も通読した」というが、あまりにも劉備たちにとって都合のいい仕立てになっており、だんだんと「曹操だってもっと優れた人物であり、すばらしい戦い方をしたのではないか」ということを感じるようにもなった。

 そこで2001年5月号から月刊「文藝春秋」で連載を開始した、自身の『三国志』は、曹操の祖父の時代、後漢を舞台にして書きはじめた。「当時の担当者や編集長は、劉備はおろか曹操も孫権も出てこない『三国志』にびっくりしたことでしょう(笑)。ただし曹操の祖父が宦官であったという事実があり、なぜ男性機能を失った宦官に子孫がいるのだろう? そこには功績のある宦官が養子をとって家を継ぐことが出来る制度があり、後漢王朝で絶大な権勢をふるうようになった皇帝の外戚の排除に、宦官たちが活躍したという歴史上の背景がありました」

三国志書籍


『三国志』を知るための年表と地図

 さて、正史に基づいた宮城谷さんの『三国志』は、後漢時代にはじまり、蜀の滅亡まで、約100年以上の長きを描いた。そこで目安になるのが、10年ごとに区切った簡易年表である。

170年
党錮の禁で李膺が死す(169年)

180年
献帝と諸葛亮生まれる(181年)

190年
長安遷都、袁紹が盟主となり東方諸侯連合なる

200年
官渡の戦い

210年
赤壁の戦い(208年)
周瑜の死

220年
曹操の死、曹丕が即位し、三国時代はじまる
劉備皇帝に(221年)

230年
孫権皇帝に(229年)

240年
曹叡の死(239年)、司馬懿と曹爽の時代

250年
高平陵事変で曹爽没落、司馬氏の時代に(249年)
孫権、孫和を廃立し孫覇を殺す

260年
曹髦の死、司馬昭(司馬師の弟)の時代に
蜀滅亡(263年)、晋建国(265年)

270年

280年
呉滅亡

 オンライン講座では『三国志』執筆のために作られたノートも公開され、こちらの年表は、「オール讀物」執筆中の名臣列伝のため、さらに更新され続けているという。

三国志ノート(蜀篇)①

三国志ノート(蜀篇)②

 もうひとつ、執筆時に欠かせないのが、後漢から三国時代にかけての地図だ。

三国時代地図

 ここで注目すべきは、「長安」と「洛陽」の位置。直線距離にすると350キロメートルになり、だいたい東京と名古屋と同じくらいの距離だ。日本で「前漢」とされている時代は、西の長安に都があるため中国では「西漢」、東の洛陽に都を置いた「後漢」は「東漢」と呼ばれることも、覚えておくべきポイントだ。

 後漢の末期、董卓は無理やり洛陽から長安への遷都を行う。この時に長安と洛陽の間にいたのが皇甫嵩だ。「しかし、もし皇甫嵩が董卓の悪を嫌って、袁紹ら東方初諸侯連合と董卓を挟撃していたら、また歴史は大きく別の方向へ動いていたのではないか」と宮城谷さんは語った。皇甫嵩については『三国志名臣列伝 後漢篇』でも詳しく書かれている。

 さらに地図上で重要なのは、北に流れる「河水(黄河)」と、南に流れる「江水(長江)」である。西から東へだけでなく、時に南北方向にも流れる河水は竜にも見立てられるが、これらは三国時代の重大な局面でしばしば大きな役割を果たした。

後漢時代地図

三国時代地図(資料)


ゲーム「三国志」で人気の名将に驚いて……

 日本における「三国志」ブームの一端を担うのは、コーエーが1980年代に発売し、今なお人気を誇るゲーム「三国志」の影響も大きい。実は宮城谷さんは、小説家デビューする以前、意外にもこのゲームに夢中になったことがあるのだという。

「小説家になる以前は自宅で塾を開いて、保育園児から高校生までに英語を教えていたのですが、ある日、小学校高学年の男の子たちが、後ろの方で『やっぱり魏延だ』『魏延はいいよね』と騒いでいて、耳を澄ましてよく聞いてみると、『三国志』の中でいちばん強いのは誰かということで、魏延の名前が出ていたわけです。まだゲームの初期の頃だと思いますが、子供たちはゲームの中で戦っているうちに、劉備たちはもちろん曹丕や次の時代の登場人物の名前さえ、すらすら言えるほど覚えてしまっていました」

 教える立場として自らも「三国志」のゲームを購入し、授業や食事の時間を除いては、寸暇を惜しんでゲームを攻略した結果、「3時間で天下統一ができるようになった」ということだが、そのコツは「今日は言いません」とにこやかに応じた。

 そして話題は、いよいよ本題の「名将の光と影」へ移り、まずは呂布に仕えた後、最終的には曹操のもとで真価を発揮した張遼、後漢時代の何進、皇甫嵩、高順、そして孫権に仕えた陸抗などの武将の名前と、彼らの活躍ぶりが次々に挙げられていった。特に曹操が、張遼に与えた函のふちに「賊が来れば開け」と記したエピソードについては、新刊『三国志名臣列伝 魏篇』にも詳しく書かれている。

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 最後は参加者からの質疑応答にも答えた本オンライン講義は、12月31日までアーカイブ配信され現在も販売中。お申込みは、https://oorusoukan90nen02.peatix.comまで。

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