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リレーエッセイ「訳書を語る」/『「小さなことばたちの辞書」の翻訳を終えて』(最所 篤子)

実務翻訳で身を立てながら、細々と文芸翻訳を続けている最所篤子と申します。「訳書を語る」というエッセイのご依頼をいただきましたので、小学館より刊行されたピップ・ウィリアムズ著『小さなことばたちの辞書』の翻訳の工夫や苦労について書いてみようと思います。

『小さなことばたちの辞書』との出会い

小さなことばたちの辞書
ピップ・ウィリアムズ著、最所 篤子 訳(小学館)

翻訳を手掛けたきっかけは? というご質問をいただきました。私は、最近は出版社さんからのご依頼もあるものの、数か月、田口俊樹先生のゼミに通った以外はきちんと翻訳学校に通った経験がないこともあり、主に持ち込みによってお仕事を頂いています。というわけで本作も持ち込みでした。

もともと別の作品を持ち込もうとしていたのですが、すでに版権が売れていることがわかり、がっかりしていたらAmazonがこちらをおすすめしてくれました。とはいえ、オックスフォード英語大辞典(OED)に、女性参政権運動に、第一次世界大戦に……というてんこ盛りの紹介文を見て「欲張りすぎでは?」とはじめは懐疑的でした。

しかし読んでみると、余白のある文章によって、危惧していた「ぎゅうぎゅう」の印象はありませんでした。そして自分の人生とも符合するものが多く、いささか傲慢かもしれませんが「私のための物語」のように感じました。幸い、小学館の担当の編集の方もレジュメを読んで気に入ってくださり、版権取得に動いてくださったという経緯です。

フィクションとノンフィクションの狭間で

本作はOEDの初版の編纂を背景にしたフィクションで、史実が巧みに編み込まれている、と紹介されることが多いのですが、むしろ、史実のほうにフィクションが編み込まれていると言うべきかもしれません。史実がフィクションと同じ重みで入り混じっているため、正確を期す必要がありました。

しかし何しろ「巧みに編み込まれている」ので、創作かと思ったら史実だった(汗)ということが頻出します。まずはあらゆる情報を「史実」とみなしてチェックする必要がありました。マレー博士の演説がOEDの序文から採られていると知れば、その原文を探し、引用文の詩の一節が雑誌に掲載されているとあれば、その号を探し、石鹸の名前が出てくれば実在する商品かどうか確認する、といった具合です。

また、「史実」に定訳があれば、それに合わせなくてはなりません。たとえば単語カードは英語ではslipですが、日本語の文献ではなんと訳されているのか、カードの分類を行っていたsorting tableに定訳があるのかないのか、こんな簡単な単語ですら、「訳す」となると調査が必要でした。原書を読んだときはわりに簡単だと思ったのですが、訳し始めてからエラいことになったと臍を噛んだものです。

Google先生と文献だけでは手に負えなかったものもありました。オックスフォード大学出版局のハートさんの肩書は、英語ではControllerですが、これは文献によって訳語が異なり、最終的に印刷博物館の学芸員である式洋子さんに助けを求めることになりました。

歴史上の事件に関連しているのに省略形でしか出てこない地名にも泣かされました。たとえば「セント・クレメンツ」は、オックスフォードで実際にあった女性参政権運動団体の行進の出発場所として登場しますが、オックスフォードには「セント・クレメンツ地区」と「セント・クレメント教会」があり、どちらなのか確認が必要です。どこを探しても資料がなく、最終的にオックスフォード博物館学芸員のParr氏に助けていただきました。

そうそう、20世紀初頭のオックスフォードのtaxiが果たして自動車か、馬車かの問題に悩み、Twitterでつぶやいたところ、ホームズ研究家の方々がみんなして助言してくださったこともありました。これは結局、Parr氏が当時のオックスフォードの写真をひっくり返して調べてくださり、自動車のタクシーが見つからない、ということで馬車に落ち着きました。今振り返れば、笑い話のようですが、作業していたときは必死だったのを思い出します。

人物造形

台詞の翻訳は、登場人物を作り上げる、私にとっては楽しい作業です。ただ本作では中流階級のお嬢さんたちに工夫が必要でした。主人公のエズメを筆頭にあまり癖のある話し方をしないため、彼女たちが日本語で話すとしたらどんな感じか、いろいろと考えました。時代は日本でいえば明治から大正ですから、たとえば堀辰雄の『風立ちぬ』や川端康成の『乙女の港』のような雰囲気でしょうか。そのとおりに再現できるわけではないのですが、「そういう感じ」という目標があるだけで、ことばを選びやすくなりました。

一方、博士や市場のメイベル、名付け親のディータ、ベスなど周囲を取り巻く個性的な登場人物は楽しんで訳すことができました。博士の台詞には、大好きな内田百閒がよく使う「貴君」をちょっと拝借したりしています。台詞ではありませんが、第六部のラストは漱石の『硝子戸の中』の最後の部分をイメージしながら訳し、気に入っています。

英単語の処理に四苦八苦

辞典の物語なので、当然、英単語が頻出します。見出し語はともかく、本文中の英単語をどう処理するかは大きな課題でした。英語をそのまま残し、訳語や読みのルビを振る形も考えましたが、小説なので一貫性にこだわることなく、作中の人物とそのことばとの関係性を、表記を使って表現するほうがいいと思い直しました。本文中で作中人物が初めて聞く未知のことばは、敢えてカナだけにし、読者にも発音しかわからないようにします。その後でことばの意味が説明されれば、そこにカナのルビを振り、カードの見出し語のところで英語の綴りを入れるといったように、綴り、発音、意味の、原文読者が得られるすべての情報を日本の読者に伝えるように心がけました。この地味な工夫に、日本を代表するSF作家、藤井太洋先生が気づいてくださったときは、本当に報われた思いでした。

つらつらと書くうちに大変だった自慢のようになってしまいましたが、本作を手がけられたことは幸運だったと思っています。取り組んでいた一年四か月のあいだに、我が子のように思っていたくろまめという猫と、十九年の長きにわたって伴走してくれたフィリックスという猫が天に召されました。そして私も人生の区切りのようなものを迎えました。

『小さなことばたちの辞書』は、社会的なテーマをもつ公に意味のある小説ですが、私自身は、出会ったときに直感したとおり「私のための物語」として、いつまでも心に抱いていく作品だと思っています。


■執筆者プロフィール 最所篤子(さいしょあつこ)
英日(日英)翻訳者。訳書に、エリザベス・テイラー『クレアモントホテル』(集英社 2010)(同名映画原作)、デボラ・モガー『マリーゴールドホテルで会いましょう』(早川書房 2013)(同名映画原作)、ニック・ホーンビィ『ア・ロング・ウェイ・ダウン』(集英社 2014)、ジョジョ・モイーズ『ミー・ビフォア・ユー きみと選んだ明日』(集英社 2015)(映画『世界一キライなあなたに』原作)、同『ワン・プラス・ワン』(小学館 2018)、ロッド・パイル『月へ―人類史上最大の冒険』(三省堂 2019)、アンドリュー・ノリス『マイク~MIKE』(小学館 2019)、ハンナ・マッケン『フェミニズム大図鑑』(三省堂 2020、共訳)など。
英訳(共訳)にTakashi Murakami “Stargazing Dog” (NBM Publishing 2011) (原題『星守る犬』村上たかし著)。

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