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リレーエッセイ「わたしの2選」/『ヒロシマ・モナムール』『スローターハウス5』(紹介する人:ヘレンハルメ美穂)

スウェーデン語の翻訳者、ヘレンハルメ美穂と申します。リレーエッセイに参加しないかと声をおかけいただき、うれしくて二つ返事でお引き受けしたものの、ほどなく「わたしの2選……2選?!」となりました。英語好きにしてくれたあの本、高校生のわたしに女性の自立を叩きこんだあの本、やっぱ会社辞めよう、と背中を押してくれたあの本、わたしを北欧沼に引きずりこんだあの本、自分にとって特別な作品なんてたくさんありすぎて、いったいどうやって選べばいいのか。途方に暮れ、街を歩いていても気がつけば「2選……2選……」と唱えていたある日のこと。こんな文字列のタトゥーを入れている人に出会いました。

”Nolite te bastardes carborundorum”

マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』に出てくるやつですね。意味は……本をお読みいただいたほうがいいと思います。まあとにかく、これを見て、もしなにかのフレーズをタトゥーとして入れるとしたらなにがいいかな、とぼんやり妄想しはじめたわけです。で、ふと、これで2作選んだらどうだろう、と思いました。体に刻みこんでもいいと思える作品なんて、もはや究極の推しと言っていいのではなかろうか!

完全に頭バクハツ状態の思いつきで、あとから頭を抱えそうな気もしますが……その2選がこちら。


”Histoire de quatres sous, je te donne à l’oubli.”(三文の値打ちもない物語、おまえを忘却の彼方に追いやろう。)

マルグリット・デュラス『ヒロシマ・モナムール』(2014年刊の新訳。河出書房新社、工藤庸子訳)


過去には『ヒロシマ、わが愛』の邦題も。アラン・レネ監督による映画のシナリオとして書かれた作品で、その映画は『二十四時間の情事』の邦題で1959年に日本でも公開されている。この邦題に惹かれて観に行った人は、きっと期待はずれだっただろうと想像してしまう。なぜなら情事そのものはべつにこの作品の中心ではないからだ。じゃあなにが中心なのかというと、人によって考えは異なるだろうが、わたし自身は、記憶がいつ、どのようにして忘れられていくか、という話かと思っている。全編が詩のようで、ストーリーよりも言葉と映像のインパクトが重要な映画/シナリオだ。

そんな作品だから、あらすじも説明しにくい、というか、それだけだとつまらなく聞こえる。平和をテーマにした映画の撮影のため、広島を訪れたフランス人女優が、日本人の男性と出会って一夜をともにする。女は、第二次大戦中にフランスのヌヴェールという町で、強いトラウマとなる出来事を経験している。男と強く惹かれあう中で、そのことを思い出し、語りはじめる。

女がこの出来事を他人に語るのは初めてのことだった。男といったん別れてひとりきりになった彼女は、あれはしゃべれる程度のことだったのだ、と考える。どんなに強烈な、一生忘れないと思っていた記憶であっても、それはいつしか「語ることのできる」物語に成り下がり、忘れ去られてしまうのだ、と。そこで発せられるのが冒頭の一文だ。

この作品にかぎらないが、デュラスの作品は印象的なフレーズが多い。難しい言葉を使っているわけでもないのに、なにやら深いところを突いていると感じる。ラストシーンのやりとりなどもまさにそうで、初めて読んだときからいままで、その意味を折に触れて考えている。ふたりはすでにこの出会いを自分たちの中で物語に変えつつあって、それでお互いの姿を見なくなり、忘れはじめているのかな、とか……。「なにを言っているんだ?」と好奇心をそそられたら、どうか読んでみてほしい。映画もあわせて観ていただきたいのはもちろんだが(岡田英次さんがもはや“イケメン”とかいう次元ではない)、デュラスによるト書きやシノプシス、補遺もたいへん読み応えがあるので、ここはぜひ書籍をおすすめしたい。

映画の予告編


”The champagne was dead. So it goes.” (シャンペンは息絶えていた。そういうものだ。)

カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』(早川書房、伊藤典夫訳)


主人公のアメリカ人ビリー・ピルグリムは、「時間のなかに解き放たれた」、「けいれん的時間旅行者」。人生のさまざまな時点へ、本人の意思に関係なくあちこち飛ばされてしまう。第二次大戦中のヨーロッパで、ドイツ軍の捕虜となって行進させられていたかと思えば、いきなり1960年代のアメリカのショッピングモールへ飛ばされて検眼医として働き、かと思えば飛行機の墜落事故を生き延びて病院に収容され、また戦時中のドイツに戻って捕虜輸送列車に乗せられているかと思えば、そこから未来に飛んで娘の結婚式に出席し、宇宙船にさらわれてトラルファマドール星人の見世物になる。そうしてビリーはドレスデンの捕虜収容施設「シュラハトホーフ=フュンフ」、つまり食肉処理場(スローターハウス)だった施設の、門から数えて5番目の建物に移送される。ドレスデンはほどなく連合軍によって爆撃され、壊滅的な被害を受ける運命だ。けいれん的時間旅行者であるビリーはもちろん、そのことを知っている。

読者はビリーの人生をけいれん的に行ったり来たりしながら、徐々にドレスデンへ連れて行かれる。SFのようであってそうではない気もするし、全編がブラックユーモアのような気もして、実際、笑えるところも多いのだが、当然それだけではない。ひょっとすると、心的外傷後ストレス障害(PTSD)というのはこんな感じなのかもしれない、とも思う。強いトラウマとなる記憶は、時とともに薄れたり都合よく改変されたりすることなく、鮮やかなままよみがえってくるものだと聞くし、それは「けいれん的時間旅行者」の感覚に近いのかもしれない、などと考えると、急にこの小説がリアルに思えてきたりもする。カート・ヴォネガット・ジュニアは実際に捕虜として、1945年2月の爆撃をドレスデンで迎えている(この小説でも「わたし」がそこかしこに登場する)。

「そういうものだ」は、ビリーをさらったトラルファマドール星人の死生観だ。トラルファマドール星人によれば、この世には過去・現在・未来、すべての時間が混在しているのであり、過去から未来へ時間が流れているのではない。だれかが死んだとしても、その人が生きて存在している時間もあるのだから、悲しむ必要はない。ただ「そういうものだ」。

だからこの小説では、戦争でむごい死に方をする人々の話がみな「そういうものだ」で片付けられていく。それがなんともいえない効果を醸し出しているのだが、そんな中で、ビリーが気の抜けたシャンペンを見つけ、出てくるのが冒頭の二文。初めて読んだときには思わず声を出して笑ってしまった。非業の死を遂げた方々の命がシャンペンと同じだと言うつもりは毛頭ないが、少なくともいつか必ずやってくる自分自身の死に関しては、「シャンペンと同じ、そういうものだ」と思える……かもしれない。


言葉になにができるのか

さて、「タトゥーにしたい一節」を出発点に選んだこの2作、テーマについてはあまり考えていなかったのだが、こうして書いてみるとかなりの共通点があることに気づいた。というか、ほぼ同じテーマなのではないかとすら思えてきた。広島の原爆、ドレスデンの爆撃、どちらも第二次大戦中に起きた悲惨な大量殺戮を扱っている。そして、そんなむごい現実を言葉で語ることなど、ほんとうにできるのだろうか、という問いかけがある。

マルグリット・デュラスは『ヒロシマ・モナムール』のシノプシスにこう書いている。

「ヒロシマについて語ることは不可能だ。できることはただひとつ、ヒロシマについて語ることの不可能性について語ることである」

 カート・ヴォネガット・ジュニアも『スローターハウス5』について、その第1章でこう書いている。

「サム、こんなに短い、ごたごたした、調子っぱずれの本になってしまった。だがそれは、大量殺戮を語る理性的な言葉など何ひとつないからなのだ」

人間の言葉で語れることには限界がある。それでもやっぱり、人は言葉を使うし、それを駆使して他人になにかを伝えようとせずにはいられない。『ヒロシマ・モナムール』と『スローターハウス5』はこの矛盾を引き受けて、それぞれユニークな形で答えを出していると思う。言葉での表現にはときに、核心に到達しきれないもどかしさ、周囲をぐるぐる歩いているだけのような徒労感がつきまとう。でも、そうしてぐるぐる歩いているあいだに吐き出される言葉のおもしろさ、豊かさといったら! どちらの作品も、それこそ体に刻んでもいいと思える言葉で満ちているのだ。実際に体に刻んではいないが、とりあえず本のほうはハイライトだらけである。

(……そして翻訳者は、異なる言語間に立ちはだかる壁というもうひとつの限界まで抱えこんで、もどかしさに歯ぎしりしながらやっているわけだ。でも、ここでもやっぱり、その歯痒さがあるからこそのおもしろさ、豊かさというのが、たぶんあるのだと思う。というか、じゃないとやってらんないですよ、ほんと!)


聖地巡礼しちゃいました

さて、これもあとで気づいたのだが、この2作にはもうひとつ、わたしにとっての共通点がある。それは、どちらも好きすぎて聖地巡礼を果たしてしまったということ。

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昔フランスに住んでいたことがあって、わたしがきわめて筆無精なせいで当時の友人はほとんど残っていないのだが、残った数少ない友人のひとりがたまたまヌヴェール出身だ。まあ、もともと親しくなったきっかけが「出身はヌヴェール」「それって『ヒロシマ・モナムール』に出てくる……」「そう!!」というやりとりだったので、あまり「たまたま」ではないのかもしれないが。そんなわけで遊びに行かせてもらえて幸せだった。ちなみにこの友人とはいっしょに広島にも行ったので、円環をきちんと閉じた感があって満足している。上の写真はヌヴェールの大聖堂。そしてトップの写真がその内部。

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ヌヴェールにある「マルグリット・デュラス通り」の標識と、ともに掲げられた『ヒロシマ・モナムール』の引用。「愛そのものにぴったりの大きさの町が欲しかった。ほかならぬヌヴェールに、わたしはそれを見出した」

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爆撃で壊滅状態だったドレスデンはその後再建され、かつて「エルベ川のフィレンツェ」と呼ばれた美しい姿を取り戻している。こちらの写真はドレスデンの聖母教会。爆撃で崩壊したものの、冷戦終結後、最新技術を用い、かつての瓦礫も利用して再建され(だからところどころ石が黒ずんでいる)、2005年にこの姿になった。

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食肉処理場の跡地は、ドレスデンの中心街から少し離れたところにあって、「メッセ・ドレスデン」というメッセ会場になっている。この写真だと読みにくいのだが、いちおう入口前に「Schlachthof 5」という看板と説明がある(赤い広告ポスターのほうではなく、その上のプレート)。

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右側の「君主の行列」という壁画は、マイセン焼きのタイルで作られていて、奇跡的に爆撃の被害をほぼまぬがれたそう。ビリーと同じで「時間のなかに解き放たれ」ているのかも、と思ってしまうほどの鮮やかさだ。

聖地巡礼というのはふしぎなもので、作品があるからこそ現実が現実以上に豊かに見える、という現象が発生する。たとえばこの美しいタイル壁画にしたって、現実のすばらしさは文章では伝わらないかもしれない(写真でも伝わっていないかもしれない)が、それでもわたしをその現実へ連れていってくれたのは言葉の力だし、『スローターハウス5』を読んでこれを見たからこその美しさ、というのも確実にあると思うのだ。

結局、究極の推しは「言葉」そのもの、だったりするのかもしれない。


■執筆者プロフィール:ヘレンハルメ美穂
スウェーデン語翻訳者。訳書に、アストリッド・リンドグレーン『山賊のむすめローニャ』新訳(岩波書店)、『北極探検隊の謎を追って』(ベア・ウースマ著、青土社)、スティーグ・ラーソンの『ミレニアム』三部作(早川書房・共訳)、ルースルンド&ヘルストレムのグレーンス警部シリーズ(早川書房)など。白夜もオーロラもなく、雪が降れば交通機関が麻痺する南スウェーデンで、住民の半分近くが外国生まれ、または外国生まれの両親を持ち、179カ国に及ぶ国籍の人々が暮らしているという人種のるつぼ、マルメ在住。暇さえあれば旅に出たい人間で、どの本を持っていくか悩むのがわりと至福の時間だったりする。パンデミック中の旅はもっぱらアウトドアになり、キャンプにはライトのつく電子書籍が圧倒的に便利という知見を得た。



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