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テンプル・モーニングラジオ

松本紹圭さんのテンプル・モーニングラジオのTwitterの報告で以下のように報告されました。

岩田親靜さん、水曜日のお経の法施、ありがとうございます。岩田さんが敬愛されるプラユキ師とのコラボの実現に感動!厳しさと真面目さと求道心、お人柄の滲み出るお経を清々しい気持ちで聴かせていただきました。南無妙法蓮華経。#templemorning 

確かに、僕はプラユキさんのファンですが、まさかラジオで自分のお経と一緒に放送されるとは・・。さらには、よき縁となし、よき縁となるのお話なので感動でした。

今回は松本紹圭さんと言えばポストレリジョン(脱宗教)論。

テンプルモーニングラジオの勝手にスピンオフということで、プラユキさんの本から信仰と宗派性の文章を抜粋し、考察してみたいと思います

信仰との関わり

ポストレリジョン、脱宗教と縛るのものすなわち信仰や信が問われます。ここでは信と信仰に関してみてみましょう。

『「気づきの瞑想」を生きる』

ブッダは「如理作意」(=理に基づいた熟考)やみずからによる実証体験を重んじ、そのような検証もなく、他から伝え聞いたなど安易は人々に戒めた。このあたりはいわゆる「信仰」重視の宗教と明らかに一線を画すところであろう。(232頁)

『自由に生きる』

仏教には、五力という法があります。一つ目は先ほども出てきた「信」、「信頼力」です。一般的に悟りにいたるための大事なパワーのひとつとしての「信仰心」と理解されていますが、英語のパーリ語辞典をひもとくと、「put oneself on~」と説明されているのですね。自分自身をその現象にオンさせていく、すなわち、それに入り込む「into」でもなく、それから逃げちゃう「away」でもなくて、しっかり触れ合っていくというニュアンスがある。心をそこに置いて、出てくる現象にしっかりと向き合っていくと言っていいですね。(中略)                                       このように、「信」というものは、もともとは、よりも、実相についての智慧を得るためのもっと機能的な意味あいを持ったものだったのです。(233・234頁)

プラユキ氏は理に基づくこと、「何かを、あるいは誰かを信仰する、といった感じ」いわゆる信仰重視の姿勢ではありません。さらに「信」を「自分自身をその現象に、しっかり触れ合っていく」もの、「実相についての智慧を得るためのもの」であると考えています。

宗派性について

さらに縛るという意味で集団性も観てみる必要があります。

『悟らなくたって、いいじゃないか』

二―仏こと魚川祐司さんとの共著であり対話本ですがその中に

なるほど、私自身は僧侶として、「ブッタの教えは全体としてパーフェクトなものだ」という信念を持っているし、それがあるからこそ、様々な相談者の方に応対する基盤を自分の中に確保することができているとは思うけど、とはいえ、そのパーフェクトな教えの表現の仕方には様々な形があっていいと思うことは、これまでにも述べてきました。(中略)そこで、一つ一つの説法の内容を取り上げて比較すると、矛盾して見えるようなところも出てきたりする。でも、それは当然のことなんですね。相手の現状を正確に見極めた上で、それに対して実効力のあることを言おうと思ったら、説法の内容も変わってくるのは当然ですから。(223頁)

「「ブッタの教えは全体としてパーフェクトなものだ」という信念を持っている」と信念を述べていますが、信仰とは述べずにいた上で、プラユキさん自身はタイの僧侶ですから、本来的にテーラワーダ的な考えでもありえますが、そうとは言っていない。自他の抜苦与楽というのが、プラユキさんの多くの表現では用いられています。『自由に生きる』の副題「よき縁となし、よき縁となる。抜苦与楽の実践哲学」なので・・・自行のみという俗に言う小乗的な方向でもなく、ただ単に利他の精神でも無いことが解ります。

『仏教サイコロジー』

私たちスカトー寺の僧侶は、瞑想を教えると同時に、村人の貧困の解消など生活向上にも取り組んでいますが、現世利益や大衆受け狙いではまったくなく、そうした技術や活動を「方便」とみなし、人々の心に智慧や慈悲を喚起させ、仏教の理想である一切衆生とともに究極の幸せ(涅槃)へと歩んでいくことを目的としていますからね。(17頁)

とも述べていて、ある意味これからの日本の仏教への課題を提示してもいるとも思われます。

刺激を受けながら

僧侶としては、松本さんに「厳しさ」と言われているのは、穏やかなプラユキさんと比べると不徳のいたすところ、人格を磨かないと・・。

寺の活動において考えるべきは、個人的には、信仰をあまり主張しない僧侶であり、問うことを中心にしているため、プラユキさんの話に違和感が全く感じません。もちろん、妄信を促したり、バランスを失わせる活動は好ましいとは思えません。

寺院は、共益性すなわち会員、檀家さんに対するサービスが第1義です。しかし、無税であるということは、第2義的に檀家さんに限らない広く多くの方々に門戸を開く活動をするべきなのでしょう。「智慧や慈悲」とまでは言えませんが、心の安定に通じる活動が求められているとは思われます。

寺として何を行うかはそれぞれですが・・昨日は代務で写経会、本日は本休寺でヨガでしたが・・少しでも身心の安定に寄与できたら幸いです。

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ソーシャル・ディスタンスに気を使いつつですが・・。









            




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