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過日、死後の世界、浄土はどこにあるかに関して、個人的な感覚を述べた。そこにあるのはもう一度会いたいという願望とその人の生き方、考え方を引き継ぎ生きていくという現実があると考えている。過去から現在への世界と言えよう。
昨晩、若松英輔『不滅の哲学』を読み終わらせた。

本書は、自分がフェイスブックで友人に告知し、開催している早朝読書会で紹介していただいた本である。もう一年以上前のものなのだが・・・

積読状態から脱却し、読み終わらすことができた。本書では自らを「哲学の巫女」と称した池田晶子の思考を追っていくのだが、紹介していただいた方曰く「若松さんからの池田さんへのラブレター的なもの」ではないかと述べられていた。

読んで感じるのは、コトバとは何か?であり存在や命とは何か?という問いかけである。

生きている限り、「毎日が本当の臨死体験」であるにもかかわらず、なぜ、死後の世界をかいま見る経験だけを、ことさらに語るのか。花畑にすでに逝った近親者が迎えに来る現象にのみ、目を奪われるのか。生とは、字義通りの意味で、持続する「臨死体験」ではないのか。そもそも、誕生とは、死への確実な一歩を意味するのではないか、と池田は問う。(121頁)

どこかに浄土あって迎えにくる(花畑を否定したのではなく、近親者が迎えに来るのを否定したのでもない)にのみ目を奪われることを否定し、今を見つめよと述べた後に

哲学は、造られた教義を拒む。いつも常識と共にあろうとする。常識とは、もっとも高次の意味における信仰であると、池田はいう。真実の意味における宗教とは、教団でも教義でも、ましてや建造物でもなく、人々に宿る悲願である。わが身をもって、超越者が顕われ出る通路となろうとする悲願ではないか、と問いかける。(122頁)

宗教とは、わが身を超越者が顯れる通路になろうとする。とのべている。

超越者を神と考えれば、一神教にもなり得るが、おそらく池田は超越者を死者と考えている。と若松氏は捉えている。

生存が物語であるとは、それを生きる人間が主体ではないことを指している。コトバが物語をあらしめているように、人間を、あるいは存在界自体をあらしめている働きがある。その働きは、人間が定める生死の境を越えて働く。さらに生存が、肉体を伴って存在することの定義であるなら、死者は生存していない。しかし、実在する。さらに彼女は、生者とは「死者の思い為しを」生きる者であり、「死者に思われ」ることによって生きる者である、ともいう。これは池田の思索の結果であるよりも、彼女の日常の経験だった。池田にとって生きるとは、死者の「思い為し」の発見であり、それとの対話だったといってよい。

だとすれば、死者は我々の側に常にいるのであり、生きているといえないだろうか?

これを読みながら思い出したのは、『わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡 (塩野七生ルネサンス著作集)』

での冒頭部分の以下の文書である。

夜がくると、家にもどる。そして、書斎に入る。入る前に、泥やなにかで汚れた毎日の服を脱ぎ、官服を身に着ける。 礼儀をわきまえた服装に身をととのえてから、古の人々のいる、古の宮廷に参上する。 そこでは、わたしは、彼らから親切にむかえられ、あの食物、わたしだけのための、そのためにわたしは生をうけた、食物を食すのだ。そこでのわたしは、恥ずかしがりもせずに彼らと話し、彼らの行為の理由をたずねる。彼らも、人間らしさをあらわにして答えてくれる。                    四時間というもの、まったくたいくつを感じない。すべての苦悩は忘れ、貧乏も怖れなくなり、死への恐怖も感じなくなる。彼らの世界に、全身全霊で移り棲んでしまうからだ。 ダンテの詩句ではないが、聴いたことも、考え、そしてまとめることをしないかぎり、シェンツァ(サイエンス)とはならないから、わたしも、彼らとの対話を、『君主論』と題した小論文にまとめてみることにした。そこでは、わたしは、できるかぎりこの主題を追求し、分析しようと試みている。

死者は書物を通して今ここにいて、訪ね聞くならば教えを説いてくれるのだという考えである。

ここから感じるのは、願いと現実ともにあり得ることであり、少なくとも自分はそこに注目しているということであろう。

さらに、「生者とは「死者の思い為しを」生きる者であり、「死者に思われ」ることによって生きる者である」とするならば、我々も何れ死者になる。次世代が思い、思われる存在となるとも言えないか?

そこには、より良き死者となる努力、通路となろうと思われる存在であろうとすることが必要であろう。

そう考えれば、法事や葬式の意義や時間の意味合いが変わってくる。バトンタッチとしての法事であり、バトンタッチへの存在としての自分が見えて来ないだろうか?

そこに注目したのが個人的には法華経であり、二仏並坐の本尊とも言えないかなどと我田引水したりもする。

https://mytera.jp/paper/kotoba_honkyuji_0022-2/

さらに、これをメタ認知すればグッドアンセスターへの挑戦とも言えないだろうか?

『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』

今という時代を嘆くのでなく、あるべき今を見つめて生きていきたいものだと感じます。






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