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いい間違え?

11月17日の天声人語は書名間違えの実例を集めた本、『100万回死んだねこ』を紹介している。

わたしも書名を間違えたり、内容をざっくり説明して逆に混乱を引き起こすこともある。

最近は読書会を開催している。ざっくり本の内容を説明した後、質問を受け、本の中身を確認し、答える形のものだ。すると、間違って解釈することもある。また、うまく説明出来ていなくて、質問を受けた時に、間違った本の印象を与えてしまったと青くなる時もある。

つい最近の読書会は「とうそう」をテーマに選書して行った。友人のブログをご覧ください。

http://wajun.or.jp/blog/b211115/

さて、自分が紹介したのは、自転車ロードレースを題材にした『スティグマータ』です。この作品は『サクリファイス』『エデン』という自転車ロードレースを題材にしたスポーツミステリーの三作目のものです。自転車ロードレースは個人が表彰台に登りますが、その実、エースを勝たせるためにアシストがそれぞれの役割を果たすことが必要不可欠なスポーツです。逃走すなわち逃げもエースを勝たせるためであり、チームとしてエースを勝たせるための闘争をする、両方の要素を持つスポーツです。特にこのシリーズはアシストというエースを支える人物が主役の作品、その心理状況まで描いています。三作目の本書はツール・ド・フランスの歴史や暗部を直接的にしていませんが、題材にしていて、歴史を知っていると上手な設定だと感じます。名所の名前も多数で出来て楽しい。

このシリーズを読んでいると、なんと言っても最後の一文がいつも素晴らしい。まるでその一文へ向かうためにすべての文章があるかのような気さえします。その一文に会うために読むかのよう。落語で言うなら落ちみたいですね。

小説のそのことを説明した気に自分はなっていましたが、どうやら受け手はそうは取れないケースだったようです。質問でそれが理解できました。明らかな自分のミスだと反省しました。

イメージを相手に伝えるのって難しい。言葉が多すぎれば混乱、少なすぎればなんだかわからない。適切な情報量で、相手に伝えるが必要だと感じます。

さて、仏教ではインドから始まり各地へ教えが伝わって行きます。その過程で教えは、時に間違って伝えられたりもします。

植木雅俊『仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 (中公新書)』 

はそのことに視点を向けて書かれています。個人的には「信」の訳語を論じた170〜172頁が俊逸です。

「法に心を置く」シュラッダーと、「法に向かって心を解き放っ」アディムクティが、「信」という心の働きの在り方を言ったものであるのに対して、プラサーダはその「信」によって得られる内的な心の状態である。このプラサーダは、特に仏教的であって、「信」は浄められ澄みきった心 (prasada-citta)という在り方で現われることを意味している。       こうしたことから中村先生は、「仏教における信仰とは、仏の法を信じて、心がすっかりしずまり、澄み切って、しずかな喜びの感ぜられる心境を言うのである」、「もろもろの真理を認知すると同時に、それによってすっかり疑いのはれた澄み切った精神状態を言うのである」とおっしゃられ、「真理を見ることが信仰の本義なのである」、「解脱とは智慧によって覚醒することなのである」と結論されている。                         仏教の説く「信」は、妄信ではないことが明らかであろう。また、熱狂的、狂信的な「信」でもない。熱狂的で狂信的な忘我の信仰は、バクティ (bhakti)と言われ、ヒンドゥー教において強調された概念であった。これは「信愛」と訳されているが、『法華経』などの仏典ではシュラッダー、アディムクティ、プラサーダは用いられても、このバクティが使用されることは絶無であった。ただ、ヒンドゥー教に多大なる影響を受けた密教経典に頻出する。      日本では、信仰については疑問すらも抱くことなく、分からないことが有り難いことだという傾向が強い。真理を探究し、疑問を納得したところに開けるプラサーダの状態に到ることは少ないのではないか。下手をすると、バクティの熱狂的な忘我の状態のほうが多いかもしれない。仏教は自覚の宗教であり、納得することを重視していたことを知らなければならない。(171〜172頁)

信をどう捉えるか?仏教における信とは?悩んできましたし、必ずしも日蓮宗的考えに立てているとは言えない自覚も持っています。今も悩みつつですが…


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