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調べる

知るということは、考えるにつながり、調べるに至る。
これは、友人に依頼して始めた深夜の勉強会で読んでいた。
啓蒙の弁証法: 哲学的断想 (岩波文庫) https://amzn.asia/d/dOyT0pH

では、著者たちが書き始めるのは、ユダヤ人であるが故に弾圧を受けたことに由来しています。
では、なぜユダヤ人は弾圧を受けたのか?

ユダヤ教と言えば、選民思想が有名ですが、一方では積極的布教をあまり行わないとも言えます。そこには、ユダヤ系の方々がディアスポラにより、世界に拡散し、金融業界で成功した。それが、経済的状態がわるいドイツ人にとってはフラストレーションのはけ口として、丁度良かったということではないか?

ここで歴史上のディアスポラを行ったのは、ローマ時代の五賢帝のハドリアヌスです。
ハドリアヌスの行為に関して塩野七生さんがそれまでのローマ自分とユダヤ人との関係をまとめたのが、
ローマ人の物語 (9) 賢帝の世紀 https://amzn.asia/d/7uoUajR

にあります。そこで問題になったのは、律法に基づく生き方である。すなわちユダヤ人にとっての自由と税、今で言う権利と義務の認識となる。

もちろん「普遍」の一角に位置する「特殊」は、異分子であることは確かである。 ユダヤ人は選民思想の持主であり、他の神を認めない一神教徒であることに確固とした自信をもつ人々であった。『ユダヤ戦記』の著者であるヨセフスは、ユダヤ民族を弁護して書いた『アピオーンへの反論』の中で、次のように書いている。
――ユダヤ人と同じ律法に従って生活しようと望む他民族は歓迎するが、律法も共有せずに生活の便だけ
を共有するつもりでいる他民族が入って来ようものなら、拒絶するのが正しいと律法にも記されている
これが、同時代のローマ人の側から見ると、歴史家タキトゥスの叙述のようになる。
――ユダヤ教徒は、自分たちと同じ生き方をしない他者すべてに対して、表面には現われないときでも常
に、激しい憎悪をいだいている――――
タキトゥスは、他者の神をいっさい認めないユダヤ教を宗教ではなくて迷信にすぎない、とさえ断じている。
また、現実の生活でも、神が許さないという理由で公職でも兵役でも義務を果さず、それでいて経済面での権利だけは平等を要求するユダヤ人は、共同体の他の成員からすれば耐えがたい存在であったろう(336.337頁)

ローマ時代のユダヤ人の問題は、あくまでローマ時代の問題と言いたいが、そのイメージはおそらくついて回ってもいるのだろう。
そこが、辛さになり弾圧の遠因ではなかったのか…
我々もフラストレーションから差別を生み出しかねない。それは、歴史に醸成されたものの可能性もある。
宗教的自由も各宗教によって異なる。
多様性を問われる社会、自由とはなにか?義務とは何かを改めて考えるべき時なのかもしれない。

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