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遊行とは

過日、オンラインデスカフェを行った。14回をかさねている。2ヶ月に一回ペースでやっているから2年半はやっていたことになる。その間、生老病死を考える15章を読むワークショップもやっていたわけで、毎月切れ目なく対話の場を設けてきた。
前回はクロージングで、次回デスカフェの日程とともに、デスカフェ、ワークショップを一度閉じる時が近づいていることを告知した。
 
この三年間で死を、生を問いつづけてきた。また、コロナ禍となり法事は、始まる前にお経の意味や法要の意義をはなし、式後には参列者に故人の思い出や過ごしできた時間に関して聞いく、ミニ分かち合いの会をほぼ毎回行ってきた。

そこには、解説があっても法話とは言い難い形であったと思う。現実に、ブッダがこう言ったとか、日蓮聖人にがこう述べているという話は少人数の法事ではしていない。参列者が多かったり、通夜はブッダの入滅の話をするが…

故人を参列者が語ることで、それぞれの故人像が見えてくる。何を引き継ぎ、今を生きているのかを…

コロナ禍となり、食事をともにすること、あちらこちらに伺うことは、確実に減った。しかし、ズームを用いて話し合うことや法事の後のミニ分かち合いで知人や友人はもちろん故人にも出会う機会がうまれた。

どこにも行かなくても遊行している気分を味わったと思う。
その上で、僧侶として自分が行わければならないことは、答えを出すのではなく、問うことであり立ち止まって考えことを促すことだったのだと感じている。
あえて答えのないところに共にたつ、そんな在り方こそが僕にとっての僧侶の在り方なのかもしれない。スマートに答えが出せない力量に幻滅しつつ。

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