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11月11日、朝日新聞の鷲田清一『折々のことば』では、
「自分よりも大切な誰かを失ったときにわきおこる 「なぜ」という問いは、どんな物語によっても答えられることがない。石井美保」という言葉が引かれている。どうして亡くならなければならないのか?を尋ねたくなる気持ちは理解できる。
 この文章を読みながら思うのは、植木雅俊『日蓮の手紙』にも引かれている『上野殿後家尼御前御書』の「人は生れて死するならいとは智者も愚者も上下一同に知りて候へば・始めてなげくべしをどろくべしとわをぼへぬよし・我も存じ人にもをしへ候へども・時にあたりて・ゆめか・まぼろしか・いまだわきまへがたく候」の文章である。日蓮聖人は若くして亡くなられたご子息の死を受け入れることが出来ないと母親の気持ちを代弁している。この文章の最後には先になくなられた父親と浄土で出会うと展開している。
これは同じ信仰を有しているという確信があるからであろうが、なぜ亡くなったのか?という質問には答えられないとも言える。また、この場合浄土の存在がなければ、残された家族は生きづらかったのではないかとも思われる。
そこにあるのは、相手に合わせて教えを説くというものであろう。これを仏教では対機説法と言う。
おそらく死に方に正解はないし、わからない。ただ分からないなりに納得することは必要であろう。


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