論争か?学びか?
昨晩は友人3人と
本書を読む日、毎回3、4頁進めは、凄い!になる勉強会です。浄土宗と浄土真宗と日蓮宗で学び合う。
教学や歴史を学びながら、今という時代とのすり合わせや現代的問題を気がついた時点で話題にしながら進んでいくので、スリリングな転換が必ず起こる。ある意味、頭はフル回転。
終わるまでの掛け合いは楽しくて仕方ない。普通なら喧嘩になりそうな内容もこのメンバーだと、感情的にならずに、違いを知り、相手を否定しない。お互いを尊敬していて信用しているから成り立つと感じます。。
自分の好きな小説に宮城谷昌光『孟嘗君』がある。その二巻に後の孟嘗君の育ての親となる風洪(後の白圭)が学ぶシーンがある。
風洪は頭をかき、 「わしのような初学者を相手にしていると、悠子の学習がすすまなくなる」 とあやまった。悠由はいそいで首をふり、 「そのようなことはありません。人におしえるということは、自分にとってあいまいであったことがあきらかになり、みずから学ぶことになるのです」と、実直にこたえた。(第2巻 137頁)
自分の場合は、相手は初学者ではありませんが、質問に答える、とことん納得するまで質問してくれる、おかげでこちらが深く学ぶことになる。良き質問は答える人間を成長させてくれるを実感します。
感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第25章2では
明らかな知慧のある人が友達としてつき合うべき人々は、信仰心があり、気持のよい、素行のよい、学識ゆたかな人々である。けだし立派な人々と交わるのは善いことである。
僕は智慧ある人とは、言えませが…友人たちは、ここに書かれた立派な人と言えます。2時間半やっても足りない感じで…終わっても早く来月にならないかな?という感覚にすらなる。
雑阿含経には「善き友がいることは修行の半ばではなく、その全てなのですよ」ということばがある。
まさにと実感した今日この頃
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