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毎日の日課は、読書と円覚寺の横田老師のラジオとテンプルモーニングラジオを聞くことです。(佐々木閑先生のユーチューブは2日に一回でこれも観ていますが…)

さて、今週のテンプルモーニングラジオは臨済宗妙心寺派の向井さんですが、「黙」のカレンダーから話が始まっている。黙とは黙るではなく、自己を見つめる、自己と対話という考えが示されている。


さて、今朝読み終わらせたのは

本書は作家小川洋子さんと臨床心理学者の河合隼雄さんの対談です。小川洋子さんのチョー有名な「博士の愛した数式」の話から物語を書く、人の話を聞くという話に展開していきます。

臨床心理学者として中高生の話を聞く機会がある河合隼雄さんは、クライアントが話さないケースに触れます。その時、話さないでなく話せない。言葉を持たないケースがある。その場合、大人が呼び水的ことばを発しないで時間を過ごす。相手の内側に居続けることが大事と述べています。

その中でキリスト教に触れ、神と人間という対立構造であり、自然と人間を分けて考える。それが科学的根本にある。我々東洋人は分けない、混沌として受け止めると述べています。

対談は続ける予定でしたが、河合隼雄さんの急死によりなくなり、小川洋子さんの長いあとがきというか追悼的文章が書かれます。その中に、

誰もが生きながらを作っているのだとしたら、私は人間であるがゆえに小説を書いている

と述べています。「博士の愛した数式」のにも触れ、

自分を絶対的な創造主ではなく、物語に奉仕する者だと認めた方がずっと安堵できます。(中略)私はただ、自分が書こうとしている物語の前にひざまずき、ルートという言葉をその器の中に放っただけです

とも述べています。物語があってそれを聞き、書き留めるというのです。

個人的にひざまづくという言葉は神の前にひざまづくイメージだとキリスト教などの一神教のような気がします。しかし、小説家は物語にひざまづくといいます。そこかしこにあるものにひざまづくともいえ、上下関係ではないと感じます。

ひざまづくという表現に引っかかり、思い出したのは…

私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべがないのである。

という福岡伸一『生物と無生物の間』のあとがきの一節である。

自然という偉大なものに敬虔な思いで向き合い記録する。そこに必要なのは恐らく謙虚さではないだろうか?

仏教は、特にブッダの仏教は神や仏などのスーパーバワーにすがりつかない。自らを自然を世界を観る。それは、自然と分けて観るのではなく、自然の一部として生きている。自然をコントロールしようとするわけではない。自然をありのままにみる。そのために自己の都合でみる癖という万人が持つ欲望をコントロールしようとする。後に大乗仏教は変質し、すがりつく考えもしめされるが…

お釈迦様が創った本来の仏教では超越者の存在を認めない。つまり我々に、神秘的な救いの手を差し伸べたり、罪を与えたりする者はどこにもいないと考えるのである。(この点は、今の日本の仏教とは全然違う。)(44頁)

観る、何を観るのか?どう観るのか?黙がそこには横たわっているのかもしれない。

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