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地域と時間

仏教という宗教は信仰を説く宗教なのかということは、このnoteでも何度か私の考えを示してきました。釈迦の仏教においては、信とは「信頼、信用」を指し、妄信につながる「信仰」ではなかったのではないかと述べてきました。

ブッダを絶対視するというより、良きモデルケースと考えるべきでしょう。同じように宗派の祖師である日蓮聖人も同じように、モデルケースの一つとみるべきだあると考えています。

また、時代という限界の中で各祖師たちは思考をめぐらしていますから、現在の視点で断罪するのか是とは言えません。その点はよくよく吟味すべきでしょう。 たとえば、釈迦の精神の一部は日蓮聖人に受け継がれ、その場所や時代の中で違う側面が強調されているケースがあると思います。

過日、友人たちを『南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経』を読む中でも話し合いましたが、釈迦はカースト制度を否定し、出家教団内ではカーストを問いませんでした。日蓮聖人は、出家教団だけでなく、お題目を唱える人間には、世俗の論理(寺社仏閣に年貢を払うという仏土の論理)を必要性がないものとしました。その良き例が「日蓮は旃陀羅の子なり、海人の子なり」という表現であり、本来、日蓮聖人自身は武士階級だったようなのです。意図的な表現と言えましょう。

結果として封建制度否定につながる論理であったため熱原法難が起こっています。人は生まれた身分で差別されないという考えは、ブッダも日蓮聖人も同じですが、場所と時代によって表現が異なり、社会的インパクトも異なります。

これを是非論で論じるのはナンセンスでしょう。また、日蓮聖人は『立正安国論』を時の前執権北条時頼に奏進していますが、今の時代にそれは是でしょうか。その当時は政治権力者が半場独裁的権利を有していたから起こったことであり、現在であれば、選挙権があり、政治参画者は民衆である我々です。個人的には、その人間に意見を言う、伝えるという方法は政治家に具申するよりは、民衆に訴えるすなわちジャーナリストではないだろうか?と考えています。

そのように見てみると、時代と場所を加味しない原理主義的思考の危険性が見えてきます。勉強会などでもそうですが、宗派や宗教がちがう中での対話の必要性は、自己の見直しであり、祖師たち精神を現代に平和的に生かすためでもありましょう。

そこに必要なのは、安心、安全な場所であり、互いが言葉に責任感を持つことではないでしょうか。さらに言うには、名利名欲でなく、虚心に意見を聴ける謙虚さなのでしょう。なかなか難しいですが、気をつけたいものだなと感じています。

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